れっぱく》の気合とともに、ピシーリ。圓生の手の白い碁石が小圓太のほうへ投げつけられていた。危うく碁石は耳許を掠《かす》って後へ落ちた。
「……その何でございます、とかくお噺というものは」
少しまごまごしてこんな意味のないことを喋ってしまったのち、
「なるがだけ我々同様というエー」
ピシーリ――ア、いけないまたいっちまった。
「いえその愚かしいエーエー」
ピシリピシーリ。――いけない二つだ。
「エー者が」
ピシーリ。――まただよ、どうも。
あわてるとついかえっていってしまう「エー」なのだった。
「その、あらわれて参りませんとお噺になりませんようで、八さん熊さんというこれが我々のほうの大達者《おおだてもの》でございまして、いったいどこに住んでいる人たちですかかいくれ[#「かいくれ」に傍点]分らないのでございますが、よく現れて参ります」
めずらしく今度は「エー」をいわなかった。――どうだイ、エヘどんなもんだい。
「エーその」
ピシーリ――。ア、いけない、ちょいと安心したらまたすぐいっちまったい。
「これが横丁の凸ぼこ隠居のところへ参りますとエーお噺らしい」
ピシーリ。
「ことにエーエー」
ピシ、ピシーリ。
「なりますようで、隠居『エーどうしたい熊さん』」
ピシーリ。
「熊『エーごめん下さいエー、そのエー』」
ピシピシピシーリ。
……仕様がない、こう「エー」ばかりじゃ。しどろもどろの大汗でやっと噺のすんだあと、
「ごらんよ周りを」
師匠にいわれて振り返ったら、白黒碁石が雨とみだれてそのドまん中にかしこまっている自分の姿は、その昔国芳師匠が酔い書きにした碁盤忠信召捕の武者絵もかくやの体落《ていたらく》だった。
「……」
さすがにてれて小圓太はしばらく悧巧そうな目を無駄にパチパチ動かしていた。
「てれることはないだろう、それだけお前さんエーをおいいだったんだ」
「マ、まさか」
「まさか[#「まさか」に傍点]じゃない、ほんとうだよ、マ、いくついったか勘定しておみ」
急いで碁石を拾い集めた。そうしてあらためて数えてみた。たら、六十三――!
「うへッ」
完全にダーッとなってしまった。
あくる日からめっきり小圓太の「エー」は少なくなり、五日十日と経つうちには必要のところ以外では決してオクビにもださないようになってしまった。
お湯とお茶の飲み分け方。
つづいてそうしたちょっとした心掛ひとつだが、なかなか気の付かない呼吸も教えられた。お湯は熱いかぬるいかの加減を表情に示すだけでよかったが、お茶はさらに舌の上で味わいを吟味してみせる表情が必要。それが両者のちがいだった。
四季それぞれの水の飲み方。
寒さ暑さで飲む人への心持もちがうだろうし、息せき切ってきた人の水の飲み方と、酔醒《すいか》の水千両の飲み方ももちろんちがった。
二階で話している人の声と塀の節穴から呼んでいる人の声。
二階の話し声はあたかも紙一重隔てているがごとく聞こえなければならなかったし、節穴からの呼び声は火吹竹を口へあてがって喋るごとき、そうした音声に聞こえなければ決して、「真」とはいわれなかったのだった。
扇を箸に、蕎麦とうどんの挟み分け方も難かしければ、いろいろのたべ物のたべ分け方もまた大へんだった。
しかも師匠は皮肉でへん[#「へん」に傍点]なものを食べるところばかりを次々と稽古させた。
まず羊かんはいいとして、長崎土産カステーラを食べてみろといわれたにはハタと困ってしまった。あんな珍しい高いもの、お恥しいがまだ小圓太はろくに食べたことすらなかった。たったいっぺん国芳師匠のところにいたとき到来物があったのを、上戸の師匠が要らないといい、兄弟子たちとひと片《きれ》ずつ頬張ったばかりだった。いまその乏しい体験の手付きや味わい方をにわかに再現しろといわれたところで……。
中でも一番泣かされたのは鱈昆布《たらこぶ》の汁の吸い方だった。まずフーフーと二度三度お汁を吹き、舌の上で昆布だけ味わい、たべてしまい、鱈は鱈で巧い具合に舌でころがし骨をだし、それを手でこう抜き取っていく、僅かこれだけのことなのだけれど、どうしてもそれが巧い具合にゆかなかった。巧い具合にも何にもてんで[#「てんで」に傍点]型が付かなかった。
「馬鹿野郎、そんなに頬ぺたを膨らがしちまう奴があるか、あれまた、膨ら……そ、それじゃ小僧が団子を頬張ってるところだ。見てろ、俺のやるのをよく」
再び師匠は右手に扇子で箸を象り、左手の指を少し丸くしてお椀とみせ、フーフーお汁を吹きながら、昆布を、鱈を、鱈の骨を、あるいは食べ、あるいは抜き取るところとじつに如実に見せてくれるのだったが、
「ホレ何でもないじゃないか。サ、やっておみ」
ド、どういたしまして。「何でもねえ」どころじゃな
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