っ風に吹き曝されて夜目にも仄白く見えるその行燈は、カタカタ寂しい音立てて揺れていた。
「……畜生……」
思わず小声でこういった。口惜しさが五体の隅々にまで浸みわたって疼いていることがハッキリと分った。
「お、お前を上げるくらいなら御簾を下ろしといたほうがまし[#「まし」に傍点]だとは、な、何てえことを一体……」
あまりの腹立たしさにガチガチガチガチ歯と歯が鳴りも止まなかった。
「いくら席亭だっていっていいことと……いっていいことと悪いこととあら。あまり……あまりなことをあの爺」
トプトプ涙がこぼれだしてきた。末の見込があると目のあたり鯉かんに賞められたそのあとだけに肩先深くザックリやられた今夜の傷手は深かった。一分御祝儀を貰ったとおもったら、五両ふん奪られてしまったようなものだった。あとからあとからそういううちにも烈しい憤りはこみ上げてきて自分で自分をどうなだめることもできなかった。
ままになるなら今すぐとって返し、むしゃぶり付いてってあの爺を音を上げるまで叩きのめしてやりたかった。
でも……。
自分が今夜っきり落語家を止めてしまうならともかくも、やっといまこれからやりはじめていこうといういまの境遇では相手はかりにも席亭の御隠居様、そんなことおもいも及ばなかった。
でも、このまんま今夜ムザムザ引き取ってしまうことは――。
口惜しさに恐らく血が騒いで、師匠の家へかえっても夜がら夜っぴて寝られないだろうとおもった。
では、どうしたらこの自分は一体。
「ウーム、よし」
いきなり小圓太は前屈みになって掴んだ、手ごろの石を。
発矢《はっし》!
「宮志多亭」と書いてあるあの招き行燈へぶっつけて、せめてもの腹いせにしようとおもったのだった。
しっかり手の中の石を握った。そして二、三度宙で振ってピューッ、あわやぶっつけようとしかけて、それもまた止めてしまった。
だって――。
巧く正面の席亭の名前のところへ当ればいいけれど、ひとつ間違って脇の芸人さんの名前の書いてあるところへ当ったら……。
何かにつけていまこの自分を引き立ててくれていておくんなさる文楽師匠のお名前へ、石をぶつけてしまうことになるではないか。ましてや破いてしまいでもしたら。
……とするとこれもできなかった。
でもやっぱりあとからあとから尽くるところしらぬ憤ろしさはこみ上げてくるばかりだった。
どうしよう、では。
どうするのだ、一体。
狂おしく心が、心にこう訊ねてきた。しばし小圓太は唇を噛んだ。招き行燈の字面をみつめて、悲しく腹立たしく立ちつくしていた。
「……」
それから小半刻もそこにそうやって立ったままでいたろうか、やがてはじめてあきらめたように向き直ると、小圓太は闇へトボトボ歩きだした。
今夜のこと、そりゃ口惜しいには口惜しいが、いや口惜しくて口惜しくて死にたいほど無念残念やる方ないのだが、でも恐らく誰もが一度は必ず通った修業街道の「門」なのだろう。
だとしたら……だとしたら、エエ仕方がない、俺もくぐろう。
くぐって、またくぐって、どこ迄もくぐり抜こう。そうして、宮志多亭の雷隠居めを見返してやろう。
それより、そのことより他に、手はないのだ、全く。
いみじくもそうおもい定めたとき、クルリとまた首だけ小圓太は振り向いた。もういっぺん春寒の夜空に揺れている「桂文楽」の招き行燈をハッタと睨んだ、またしても涙いっぱいの目で。
「見ろ今に。あの行燈の中へきっと俺、三遊亭小圓太の名前を書き込ませてやるから。見ろ見ろ見ていろ雷爺め」
声は傍から夜風に吹きはらわれていったか、筒いっぱいにこう怒鳴った。
腰の提灯取り出して灯を点けようともせず、そのまんま後をも見ずに駈けだした。
六
一心不乱に勉強しだした、小圓太は。
ぽつぽつ師匠も噺を教えてくれはじめ、日一日とすじみちはあいてゆく塩梅だったが、なかなかいまはそんなことでは満足してはいられなくなっていた。
なるんだ、偉くなるんだ。
一日も早く偉くならなければ、俺は。
毎晩々々楽屋へいっては前座として働くだけ働き抜いたあと、少しでも間があるとシッカリ楽屋格子へつかまっては、どんな人の噺でも咳ひとつ聴き落とすまいと心がけた。
その時分、師匠の真打席《とりせき》と文楽師匠の真打席とてれこ[#「てれこ」に傍点]につかって貰うようになっていたのだったが、どこの寄席でも十五日間小圓太のかよってくるところの楽屋格子は必ず手垢でベットリ薄黒く汚れてしまっていた。
その上、昼間、少しでも暇がみつかると小圓太は、プイと師匠の家を飛び出し、近くのおし原亭あたり、昼席へいった。
楽屋から客席へとおしてもらい、先輩たちの噺を真正面から取っ組んでは勉強した。これは仲々の薬になった。
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