がんねえよ高座へ」
「誰がです」
「お前がだよ」
「冗、冗……」
「ほんとだよ」
「だ、だって、そ、そんな冗……」
「上がりなってば、いいから。そのためのお前、イザってときのとっとき[#「とっとき」に傍点]にしておく前座じゃねえか」
「でも私はもう宵に」
その宵も、あと[#「あと」に傍点]のしんこ細工の蝶丸さんがこないで二席がけたっぷり[#「たっぷり」に傍点]とやってしまった自分だった。
「いいや上がったっていい。何べんでも上がりねえな。何、遠慮があるものか、お前の噺は末があるんだ。俺見込んでこねえだ[#「こねえだ」に傍点]文楽さんにそういっといてやったくれえなんだ」
ア、この人がいって下すったのか――。
「ありがとうございます」
傍らの大太鼓へ危うくお額《でこ》をぶつけてしまうほどのお辞儀をすると小圓太は、さすがに嬉しさに胸ときめかせて、
「じゃ、上がります」
「オオ上がれ上がれ。上がりねえとも。いいシホだからこういう深えとこで充分腕を磨きねえよ。その時分にゃ誰か届かあ。じゃ文楽師匠によろしく、な」
そのまんまプーイと鯉かんはとびだしていった。「ウー寒い寒い」という声がすぐ表で聞こえてやがて凍ったような下駄の音ばかりが次第に遠のいていった。
「……」
身ずまいを正して小圓太はいよいよ上がることにした。上がる前に楽屋格子の透き間からソッと客席のほうをうかがってみた。下席とはいえ、新春《はる》のことでギッチリといっぱいに詰めかけている。
こんないっぱいのお客の前で喋るなんて子供の時分のとき以来だ。何だか胸がワクワクしてきた。ゴクッと生唾を飲み下した。それから誰にともなく両手を合わせた。やがて思い切って板戸へ手を掛け、スーッと引いた、はずがガタガタガタンと至って不器用に大きな音を立ててしまった。新米の泥棒が物にけつまずいたときのよう、たちまちハッと小圓太はまごついてしきりに動悸を早くさせながら世にもオズオズしたかっこうで、宵にいっぺん上がった高座へ、ソーッとまた上がっていきかけた。
「……」
そのとたんだった、何だか分らない破れッ返るような大きな声を背後に聞いた、と思う間にムズと誰かに襟っ首を掴まえられてズルズルズルと楽屋まで引き摺り下ろされてきた、絶えずその間も口汚く罵《ののし》られながら。
「……」
やっとその手を放されたとき、ボンヤリ顔を見上げると、宮志多亭の御隠居だった。よっぽど腹を立てているのだろう、着ている革羽織がカサカサ音立てて慄えていた。頭《かしら》の上がりで木やり上手として知られているこの御隠居はまた、雷親爺と仇名された喧《やか》まし屋として文字通りの雷名を仲間うちに轟かせていた。しかもいまやその雷が黒雲踏み外して、真っ逆様にガラガラ下界へ落っこちてきたのだった。
「いい加減にしろイ、大馬鹿野郎」
目と目があうとすぐいった、ガクガク入れ歯を噛み鳴らしながら。
「……」
何が何だか分らなくて小圓太はちぢこまった。
「二度……二度上がる奴があるか、手前みてえなセコチョロ[#「セコチョロ」に傍点]が」
セコとは芸人仲間の符喋で、「まずい」「つまらない」という意味だった。
「な、何だって……何だってヤイ上がりやがるんだ、それもこんな深いところへ何だってオイ上がるんだよ」
そこらをこづき[#「こづき」に傍点]廻さないばかり笠にかかってきめ付けてきた。
「あいすみません、あとにまだ誰も参りませんし、鯉かんさんがお前上がれとおっしゃったもんで」
やっと自分の叱られているわけが分って、にわかにオドオド小圓太はいった。
「べ、べら棒め、鯉かんが上がれっていったって」
よけい破れっ返るような声をだして、
「つもってもみろ、手前にこんなところへ上がられたらせっかく入ってるお客様が皆ずらかっちまわあ。明日ッからこの宮志多亭はな、屋根へぺんぺん草を生やさなけりゃならねえや、このはっつけ[#「はっつけ」に傍点]野郎」
「すみませんごめん下さい」
もういっぺんまたオドオドと詫びた。
「閉めとけ御簾《みす》を。いつ迄でもあと[#「あと」に傍点]のくるまで閉めッ放しにしておけ」
さらに憎さげに隠居はいい放って、
「お前《め》っちが上がるよりゃア御簾のほうがよっぽどまし[#「まし」に傍点]だ」
そのまんまドタドタドタと木戸のほうへと足音荒くいってしまった。
その晩――いい塩梅に間もなく常磐津を語る枝女子という若いおんなが入ってきてくれ、そのあと早目に文楽師匠が入ったので高座は大した穴も開かずにすんだが、中橋に住んでいる文楽師匠の駕籠を見送ったのち小圓太は、いつ迄もいつ迄も細い路次の入口に掲げられた宮志多亭の招き行燈を、ジッと目に涙をいっぱいたたえて睨んでいた。「桂文楽」一枚看板の灯はとうに消されていたが、ひどい空
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