きたのである」と永井荷風先生の「里の今昔」にも記されてゐる。

「もし/\、お疲れ筋を寔にすみませんが……」
 揺起しながら阿波太夫。
「私で、阿波太失で、花魁からのお言付けなんで」
 では、この阿波太夫の言葉に拠ると、彼、栄之丞は、前夜、恋びと八つ橋と随分見果てぬ夢を追つて、けさ方かへつて来て、それつきり正体もなく寝入つてゐたのか。
「…………」
 ウ、ウ、ウーと云ふやうな小さな呻き声がして、やがて濡れて美しい目を見開き、しづかに阿波太夫の方を見やつた宝生栄之丞先づ、そのとき第一番にどんな態度をして見せたか?

     二

「…………」
 黙つて、伯龍は、否、宝生栄之丞は、先づ両手で両手を、やがて両肩を、腰の辺りを、次々と揉んだ。
 美しい平顔を、しかめて揉んだ。
 やゝながいこと、揉みに揉んだ。
 あゝ、それがいか許り昨夜《よべ》の八つ橋との逢瀬《あふせ》を、睦言《むつごと》を、絢爛多彩な絵巻物として、無言のうちに悩ましく聴くものゝ心の中に想像させて呉れたらうことよ。
 凝つた朱塗りの行灯の灯《ほ》かげ淡《あは》く、勤めはなれて、目を閉ぢ、口吸はせてゐる艶麗の遊女八つ橋。
 髷
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