つてゐる矢車よ。
「御免下さいまし、あの、御免……」
浅草|中田圃《なかたんぼ》の、妹とふたり侘び住んでゐる浪人宝生栄之丞宅の格子戸の前へ、烈しい日の光りを浴びながら案内を乞ふてゐる、四十がらみの、スーツと背の高い、垢抜《あかぬ》けのした男は、吉原名題の幇間、阿波太夫《あはたいふ》でございます。
「アラお師匠《しよ》さん」
声に、すぐでて迎へたのは、栄之丞の妹お光で――と、愛想好く伯龍の描きだす十六娘の、ニツコリ色白の顔が微笑む。
「あの、お兄《あに》イさんは」
「兄《あに》さんですか」
「ハイ」
「あのウ」
再び妹が微笑んで、
「未だ寝てますんで」
「…………」
御無理はござんせんやと云ひ度げに、意味あり気《げ》な笑を浮べて阿波太夫。
「花魁《おいらん》からのお言付《ことづ》けなんですが……ぢや……あの……手前が一つ」
「起して下さい、構ひません」
三たび妹の顔が微笑んだ。また愛想好く。
いま吉原は兵庫屋で、飛ぶ鳥落す全盛の花魁八ツ橋の幼馴染、筒井筒振分髪の恋人が、何を隠さうこの宝生栄之丞その人なのだつた。主家を浪人後は、習ひおぼえた謡曲で、細々と妹と暮らしてゐた彼だつ
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