見現《みあらわ》したと許り、晩年、放送局であつたとき私が云ふと、
「…………」
 黙つて彼は、さも忌々しさうにニヤ/\した。
 伯龍は師匠伯山には殆んど教はるところなく、近世世話物の名人と呼ばれた一立斎|文慶《ぶんけい》(荷風先生「築地草」参照)に、話術は元より、幕末風俗に付いて教はるところ少くなかつた。
 たしか文慶は、お数寄屋坊主だつた上に、前述の「美の吉ころし」の美の吉とも御親類筋で、その位牌を常に飾つて拝んでゐたと云ふ位の幕末の直参にはあり勝ちの、所謂「相馬《さうま》の金さん」だつたから、伯龍のやうな廃頽期の江戸の世相人心を描破するものにとつては、どれ丈けその見聞談が薬となつたか分らなからう。
 かくて、一立斎文慶の薫陶と、為永春水文学の影響とが、あの江戸後期浮世絵を見るがごとき「伯龍話術」を完成させたのだと云へる。

「ウム」
 もう一ぺん肯《うなず》き直して、急にニコ/\しだした栄之丞は、
「太夫、よくしらせに来て呉れた」
 心から嬉しさうに云つて、
「あのウ」
 台所にゐる妹の方へむかふと、
「阿波太夫さんに、焼酎が冷えてるだらう、それから桃があつたな、差上げて呉れ」

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