とかいう三味線ひきが、品川であそんでいて、絃の音色で安政の地震を予覚したという話さえ思い出して、これは、遠からず何か異変があるのじゃないかとさえ、心、ふるえた。
そうして、いやいやながら顔だけ出そうと、ほかの席はすっかりぬいて、トリの恵智十へ入るとたちまち今度はスッと胸が晴れた、そういってもいつもよりかえってほのぼのとすがすがとなって弾いた、うたった。うたった、弾いた。いつもの五倍もはしゃぎにはしゃいで、さて、そのあくる日、湯島の家で昼風呂につかっているといとけたたましい号外の声。
はてなと小首をかしげる間もなくその号外は、
「伊藤公ハルピン駅にて暗殺さる」
云々。
はじめて心に橘之助、昨夜の怪異が深く深く肯かれたというのであるがあたしは橘之助の、あの狸のような顔が、何かその時もの凄いありったけに思えて、ぞっと水でも浴びたここちに、四谷の通りへ駆けて出ると、ここでも秋の夕の小寒い灯が何がなし、あたしの瞳にいぶかしく、うつった。
これが、思い出の、そうして、第四。
秋の思い出は、恋といわず、無常といわず、みんな、さびしい色ばかりだ。
[#地付き](昭和三年夏)
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