銭」を聴かせてくれた。
思い出の、第三。
立花家橘之助は、今も六十近くをあの絶妙な浮世節の撥《ばち》さばきに、さびしく薬指の指輪をかがやかせているであろうか? その頃(震災の二年ほど前)橘之助は、小綺麗な女中をつかって、四谷の左門町に二階を借りていた。
あたしは、その頃、鴉《からす》鳴く秋のたそがれ、橘之助自身から、そのかみの伊藤博文と彼の女にまつわる、あやしい挿話をきかせてもらったことがある。
橘之助は、博文公と、かなり、前から深い知り合いだったものらしい。で、公がハルピンへゆかれるときもその送別の席上、
「今度、俺が帰ってきたら、有楽座のようなボードビルを建ててやるから、自重して、そこへお前は年に二回くらい出るようにしろ」
と、公は言われた。
「御前、それは、ほんとうですか」
橘之助は、夢かとよろこんで、公をハルピンへ発たせたが、それから数カ月、ある夜、人形町の末広がふりだしで、橘之助高座へ上がると三味が鳴らない。ぺんとも、つんとも、まるで、鳴らない。とうとうそのまま高座を下りたが、悪寒はする、からだは汗ばむ、橘之助、何十年と三味線をひいて、こんな例は一度もない。昔何
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