に上げる。――やがて、音もなく、御簾が上がる。――小せんは、さびしい面輪をふせて、身を、釈台に凭《もた》らせている……。
 バタバタと鳴る拍手――その拍手さえ小せんにおくるお客たちのは妙にさびしく遠慮がちだったのを、あたしは、忘れることができない。その晩小せんは「近江八景」という、惚れた遊女が果たして自分のところへくるか否か、易者にみてもらう、あの噺をやったけれど、
「おめえの顔なんざ、梅雨どきの共同便所へはだしで入って、アルボース石鹸で洗ったような顔だ」
 云々という独自のクスグリを、ずいぶん身にしみて、聞いた記憶がある。
 小せんは、あれからじき患いこんで、翌《あく》る四月の末に死んだが、最後を秋の夜に聴いたゆえか、自分は小せんの死というと、あの若竹の秋の夜が、あの若竹の打ち水濡れし前栽が、目に泛《うか》ぶ、さらに山の手の寄席の夜らしい耶蘇の太鼓が耳につく……。
 これが、思い出の第二。

 もう、文展のはじまる時分、曇った秋の午後三時を、上野の鈴本で聴いた圓蔵の噺も忘れられない。
 品川の圓蔵と称えられる、先々代の圓蔵である。
 故人芥川龍之介は、この人を讃えて、「からだじゅうが
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