市川團十郎、尾上菊五郎、常磐津林中《ときわずりんちゅう》などとともに第一流の人物に仲間入りをしていた彼、圓朝だった。たまたま、いま花火のひと言から、軌みゆく人力車上に、つくづくと彼は「時の流れ」ということを考えてみないわけにはゆかなかった。
 と――思いもかけず、吹貫亭の四畳半へ置いてけぼりにしてきた勅使河原静江の黒目がちの眼差が、幻燈の画面のように眼先へちらついてきた。それがお絲の顔に変わった。飽きも飽かれもせぬものを、生木を割かれて別れたお絲の。
「お絲と別れて自棄《やけ》になった時分の圓朝なら、あの脂の乗りきった出戻りのお嬢さまに、名僧知識そこのけのお説教を聞かすような、もったいねえ真似はしなかったはずだ。ああ、こうなると、いっそ大川へ浴衣がけで飛び込んだ江戸の昔が懐しいや。いや、ことによるとあのときが俺の生涯でいちばんよかったときかも……。
 圓朝はふッとお絲の肌の温《ぬく》みを思いうかべ、今さらにあの日が、あのときが恋しかった。キューッと胸しめつけられるほど慕わしかった。「は、はッくしょい」と彼はくしゃみをした。五位鷺《ごいさぎ》が、頭上で啼いた。
 ……以上を断章の「第二」
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