いた。今こそ圓朝は、江戸八百八町の人気という人気を根こそぎひとりでひっさらって仁王立ちしている自分を感じた。
ああ、この夜のこと、とわに忘れまじ。
お絲よ、花火よ。
いつか不機嫌のカラリと晴れて、圓朝は心にこう叫ぶものがあった。
ぽん、すぽん、ぽん――折から烈しい物音がして、にわかにこの辺り空も水も船も人も圓朝も、お絲も猩々緋《しょうじょうひ》のような唐紅に彩られそめたと思ったら、向こう河岸で仕掛花火の眉間尺《みけんじゃく》が、くるくる廻り出していた。
……以上を我が断章の「第一」とする。
[#改ページ]
断章の二
「……すると十二月二十日の夜、深見新左衛門様の奥様がまたキリキリとさしこむというので呼び込んだ按摩《あんま》が、いたって年をとった痩せこけた男で、
『ヘエ、にわかめくらで誠に慣れませんから、どこが悪いとおっしゃってください。経絡《けいらく》がわかりませんから、ここを揉《も》めとおっしゃれば揉みます』
と、うしろへ廻って探り療治をいたします」
十八年の月日が流れていた。明治もはや十五年の九月の上席。下谷池之端の吹貫亭の高座に「累ヶ淵《かさねがふち》」の宗悦《そうえつ》殺しを話し出している、端然とした圓朝の高座姿を、この頃点された大天井の花|瓦斯《ガス》が青白く音立てて照らし出している。
ようやく陰影《あじ》が深まり真《まこと》の名人の境地に達してきた圓朝は、やや額が抜け上がり、四十四歳の男ざかり、別人のように落ち着きができてきていた。
四百あまりも詰まったお客は、咳《しわぶき》ひとつだにしない。膝乗り出して聴きいっている。
「……ところが、揉んでもらえば揉んでもらうほど、奥方が、
『アア痛、アア痛』
『奥や。そう、どうもヒイヒイ言っては困りますね。お前、我慢ができませんか。武士の家に生まれた者にも似合わぬ。あ、これ、そう悶えてはかえって病に負けるから、我慢していなさい』
『アア痛、……』」
打ち水をした庭で、ときどき地虫の鳴くのをよそに、いよいよ圓朝は噺をすすめた。
「……『これこれ、按摩、待て。少し待て。そう痛いワケがないが、代わりに拙者のを揉んでみろ、アッ、アッ、こ、これは痛い。なるほど、こ、これはどうもひどい下手だな。汝《てめえ》は、骨の上などを揉む奴があるものか。少しは考えてやれ、ひどく痛いワ。ああ痛い。たまらなく痛かった』
『ヘエ、お痛みでござりますか。けれどもまだまだこんなことではござりません。あなたのお脇差で、この左の肩から乳のところまでこう斬り下げられましたときの苦しみは……』
『エ、なに……』
振り返って見ると先年手打ちにした盲人宗悦が骨と皮ばかりに痩せた手を膝にして、怨めしそうに見えぬ眼を開いて、こう乗り出したときは、深見新左衛門は酒の酔いも醒め、ぞっと総毛立って、怖いまぎれに側にあった一刀をとって、
『おのれ参ったか』
と力に任して斬り付けると、アッというその声に驚きまして、門番の勘蔵が駆け出してきてみると、宗悦と思いのほか、奥方の肩先深く斬りつけておりました。
深見新左衛門、宗悦の祟りでいよいよ狂う。
『累ヶ淵』の発端、また、明晩へ続かせていただきます」
ぞっとするようなこの切れ場で、巧みに圓朝は話を切って、
「…………」
あたまを下げたが、不世出の名人が一言一句に擒《とりこ》となったお客たちは、なおもしばらくは立ちもやらずボーッと座ったままでいたが、やがてドロドロと鳴り出した楽屋の果太鼓にはじめて我に返るとドーッと万雷の拍手をおくった。
「ありがとうございます。お静かにいらっしゃいまし、お静かに」
客席の雑踏へ二、三度、声をかけると、ようやく高座を立って楽屋へ下りていったが、
「御苦労さまでございます」
「お疲れさまで」
口々に声をかける弟子のなかで、鳶《とび》のような口付きをした色の黒い勢朝が、
「師匠、お客さまですぜ」
「なに……お客様? 困ったな……」
チラッと涼しい眉をしかめて、
「……今夜は、芝の馬越さまへお招《よ》ばれなのだが、どなた様だ」
「ヘイ、それが、あの……」
なぜか勢朝が口ごもったとき、
「あら、師匠。私、勅使河原静江よ」
早くも楽屋の次の間から、眉の濃い目のパチリとした派手やかな顔のこの貴婦人は夜目にも白牡丹の花束のような厚化粧で金ぴかずくめの西洋服に、ボンネットとやらいう鍔広《つばひろ》の花帽子をかぶり、ラム酒の匂いをプンプンさせながら、艶かしく全身を屈らせて圓朝を迎えると、
「ねえ、ねえ師匠、私今夜どうしても師匠を離さないわよ。圓朝師匠は私のものよ」
けたたましく声立てて女は笑った。
「ねえ、師匠さん。今夜、約束だから、私と付き合ってくださいね。――表に馬車が待たせてあるんだから」
楽屋に隣る四畳半で、吊洋燈《つ
前へ
次へ
全6ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
正岡 容 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング