りランプ》の灯影に、勅使河原静江と呼ばれるその女は、行儀よく膝の上へ並べた圓朝のしなやかな手をツイと自分のほうへ引き寄せると、
「ね、いいでしょう。たまには約束を履行するものよ。師匠は文明開化の存在だから、おおいに女権を認めてくださるでしょう」
 くずれるほどに濃い口紅の唇を圓朝の頬近くへさし寄せて言ったけれど、
「お断りいたします。今晩は、馬越さまのお邸へ先約がございます」
 しずかに彼はその手をふりほどいて言った。
「まあ失礼な、そんなことお言いなら、私のほうの先約は、何カ月前からだか、わかりはしない」
「それは、あなた様が御勝手に独りぎめをなさったのでございます。静江様――」
 キッパリ言葉をあらためて、
「あなた様は、かりにも勅使河原子爵のお嬢様ではございませんか。寄席の楽屋などへ馬車をお停め遊ばしてはいけません」
「アラ、私はお嬢様ではないよ。その日暮らしの出戻りだよ」
「いいえ、そんなことはございません。たとえただ今は御破婚のお身の上でも、やがては必ずよい日がおとずれて参ります。くれぐれも御自重なさらなければいけません。圓朝にはそんな浮気のお相手はできません」
「あら、なにを言うのさ。私は浮気ではありませんよ。ほんとうにお前の芸を愛して……」
「それがお心得ちがいでございます。不肖圓朝の芸をひいきにしてくださるのは、冥加に余る喜びでございますが、それとこれとはまた別でございます」
「……でも……」
「お嬢さま、あさっての晩、もう一度、この寄席へお出で遊ばしませ。読み続きの『累ヶ淵』は女師匠の豊志賀が、年下の新吉という男と、ほんの一夜の浮気から、まったくその身を誤って死んでしまう件《くだり》をばお聴きに入れます。失礼ながらあなた様は、立派な開化のお嬢さま、間違ったただいまの御了見に、とくと御理解が参りましょう。――もしお嬢さま、このごろ時花《はやり》の都々逸には、※[#歌記号、1−3−28]苦労気がねを積み重ねたる二等煉瓦の楽住居――ということがございます。圓朝は、あなた様におめでたい春のめぐってくる日を、心からお祈り申しております」
 あくまで真摯な圓朝の態度に、今はラム酒の酔いも醒め果ててか、勅使河原静江は悄然とうなだれてしまった。奇麗に剃られている首筋が、草の葉のように寂しかった。
 が、己の信ずるままを語り終えた圓朝は、帯の間から、懐中時計を取り出して見ると、
「勢朝」
 次の間へ声をかけ、
「お前、お嬢さまを馬車までお送りしてお帰し申せ。それからお前だけ二葉町へ先に帰れ。そして今夜は私は帰らないからと伝えておくれ」
 ――そのままつぶらな目を伏せ、ちょこなん[#「ちょこなん」に傍点]と西洋服のまんま座っている静江を残して、さっさと彼は吹貫亭を立ち出ていってしまった。

 それから十分ばかりのち、圓朝を乗せた人力車は、暗い湯島の切通しから、本郷三丁目を壱岐殿《いきどの》坂へと、鉄輪の音響《おと》を立てながら走っていた。
 十一時過ぎとはいえ、新秋の宵の本郷通りは放歌高吟の書生の群が往来繁く、ときどき赤門のほうで歓声が上がった。
「加賀さまのほうで花火を上げているそうでござんすよ」
 車夫の音松はそう言ったが、俥《くるま》の上で振り返って見てもそれらしい光は見えず、雨もよいの風はひいやりと涼しく、夜空がいたずらに赤茶けていた。
 ――これから招ばれて行く馬越様とは、実業界にときめく馬越恭平が芝桜川の邸宅では、今夜川田小一郎、渋沢栄一などときの紳商に圓朝をまじえた人たちが、夜を徹して風流韻事を語り明かそうという。いつか、日本の芸界で市川團十郎、尾上菊五郎、常磐津林中《ときわずりんちゅう》などとともに第一流の人物に仲間入りをしていた彼、圓朝だった。たまたま、いま花火のひと言から、軌みゆく人力車上に、つくづくと彼は「時の流れ」ということを考えてみないわけにはゆかなかった。
 と――思いもかけず、吹貫亭の四畳半へ置いてけぼりにしてきた勅使河原静江の黒目がちの眼差が、幻燈の画面のように眼先へちらついてきた。それがお絲の顔に変わった。飽きも飽かれもせぬものを、生木を割かれて別れたお絲の。
「お絲と別れて自棄《やけ》になった時分の圓朝なら、あの脂の乗りきった出戻りのお嬢さまに、名僧知識そこのけのお説教を聞かすような、もったいねえ真似はしなかったはずだ。ああ、こうなると、いっそ大川へ浴衣がけで飛び込んだ江戸の昔が懐しいや。いや、ことによるとあのときが俺の生涯でいちばんよかったときかも……。
 圓朝はふッとお絲の肌の温《ぬく》みを思いうかべ、今さらにあの日が、あのときが恋しかった。キューッと胸しめつけられるほど慕わしかった。「は、はッくしょい」と彼はくしゃみをした。五位鷺《ごいさぎ》が、頭上で啼いた。
 ……以上を断章の「第二」
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