圓朝花火
正岡容
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)齣《こま》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三|百《ぞく》五|百《そく》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#歌記号、1−3−28]
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こはこれ、我が五色七いろの未定稿なり、覚え書なり。
われ、三遊亭圓朝を愛慕すること年久しく、その一代を長編小説にまとめあげん日もまた近づきたり。
「圓朝花火」一篇は、実にそが長編の礎稿をなすものなり。青春の、中年のはたまた晩年の、彩り多く夢深かりし彼がひと日ひと日の姿絵をばここにかかげ、大方の笑覧を乞わんのみ。再び言う、こはこれ、まったくの未定稿也。あわれ幻燈の絵のひと齣《こま》とも思し眺め給えや。
断章の一
――スルスルスルと蛇のようにあがっていった朱い尾が、かっと光を強めたかと思うとドーン。
たちまち、大空いっぱいに、しだれ柳のごとく花開いた。
続いて反対の方角から打ち上げられたは、真赤な真赤な硝子玉《びいどろだま》で、枝珊瑚珠《えださんごだま》の色に散らばる。
やがて黄色い虹に似たのが、また紅い星が、碧《あお》い玉が――。
「玉屋」
「鍵屋」
そのたび、両国橋上では、数万の人声が、喚《わめ》きたてた。
夜目にも真っ青い大川が船と人とでぎっちり埋まり、猪牙《ちょき》、屋根船、屋形船、舟と舟との間を抜け目なく漕いで廻るうろうろ舟、影絵舟まで、花火のたんび、紅緑青紫と塗られていく。万八、河長、梅川、亀清、柳屋、柏屋、青柏、大中村と、庇を連ねた酒楼《おちゃや》でも、大川筋へ張り出した桟敷《さじき》へ、柳橋芸者に綺麗《きら》を飾らせ、空の一発千両と豪華のほどを競い、争っている。まったく今夜ばかりは松浦侯の椎《しい》の木屋敷と首尾の松の一角が、わずかに両岸で闇を残しているのみで、
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長橋三百丈[#「長橋三百丈」に傍点] 影偃緑波中[#「影偃緑波中」に傍点]
人似行天上[#「人似行天上」に傍点] 飄々躡玉虹[#「飄々躡玉虹」に傍点]
[#ここで字下げ終わり]
という江戸名物の川開きに、満都が酔い尽くしている有様だった。
「ねえ、おッ師匠《しょ》さん。そう花火にばかり見恍《みと》れていないで、さあひとつ干しておくんなさいよ」
その大川の真ん中ほど、申し訳ほどに上り下りの船の通い路を残している、すれすれにもやった屋根船、夜目にも薄白く沢村田之助《きのくにや》そっくりの美しい顔立ちを嬉しく浮き上がらせている女は、成島柳北《なるしまりゅうほく》が「柳橋新誌」に艶名《えんめい》を謳われた柳橋のお絲《いと》。
「いや、あっしは駄目だ。お酒のほうはお積《つも》りとしやしょう。それより下戸には、いっそ、この柳升の甘味のほうがうれしい」
言いながら、いま芝居噺でお江戸の人気を一身に集めている若い落語家《はなしか》の三遊亭圓朝は、傍《かたえ》の切子のお皿から、葛ざくらのようなものをつまみあげて、不機嫌に口へ運んだ。色の生白い、見るから二枚目然とした彼は、派手な首ぬきの縮緬浴衣を着ていた。生ぬるく夜風が吹き抜けていった。
その頃、落語家の檜舞台といわれた、向こうの垢離場《こりば》の昼席でトリ[#「トリ」に傍点]をつとめて三|百《ぞく》五|百《そく》の客を呼び、めきめき大方の人気を煽り出した圓朝は、いつしか橋ひとつを隔てた土地のこのお絲と恋仲になっていたのだ。元治元年、圓朝二十六歳の夏だった。
「アラ葛ざくらなんか。じゃ、こっちの有信亭の共白髪《ともしらが》のほうがオツでさあね。ね、ほら、アーンと口をお開きなさいよ」
いっぱいの幸福感を顔中に漲《みなぎ》らせて、お絲は、風雅な朱塗りの箸で名代《なだい》の共白髪をはさみかけたが、
「おっとっと、お絲、それにゃおよばねえて」
また、その白い手を押さえて圓朝は、
「あっしは親代々の落語家だ。――こんな品ものよりも、小大橋辺りの腰掛けで惣菜物でも食べるほうが柄だろうて」
「……まあ、おッ師匠さんは、なんで今夜はそんなキザばかり言うんだろうね。あたしのお気に召さないところは、あけりゃんこ[#「あけりゃんこ」に傍点]にぶちまけて、叱ってくださればよいものを、ええもう、じれったいったら」
やっぱり幸福感をたたえた顔のまんまいざり寄ってきて、男のやさしい撫で肩へ手をかけようとしたとき、
「しッ、しずかにしろイ。お前に怒っているんじゃねえ。見ろイ、向こうの船にゃあ、敵役がいらあな」
圓朝はそれを振り払い、豪奢な煙管で一重帯ほどの水を隔てた向こうの船を指さした。
筋向こうの屋根船には、当時の落語家番付で勧進元の
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