貫禄を示している初代春風亭柳枝が、でっぷりとした赤ら顔を提灯の灯でよけい真っ赤に光らせながら門人の柳条、柳橋を従え、にがにがしくこちらを見守っていた。元は旗本の次男坊で、神道にも帰依したといわれる柳枝は、自作自演の名人で、なかには「おせつ徳三郎」や「居残り佐平次」のような艶っぽい話もこしらえたが、根が神学の体験を土台に作った「神学義竜」や「神道茶碗」のほうを得意とするだけあって、頑固一徹の爺さんだった。
 従って、彼は圓朝が時世本位に目先を変えてはでっち上げる芝居噺のけばけばしさを、心から軽蔑していた。
「落語家は落語家らしく、扇一本、舌三寸で芝居をせずば、ほんとうの芝居噺の味も値打もあったもんじゃあねえや。それが、あの圓朝ときたら、どうだ。長唄のお囃子を七人も雇いやがって、居どころ変わりで引き抜いて、とんぼは切る、客席へ掘り抜け井戸を仕掛けて、その本水で立ち廻りはしやあがる。まるで切支丹|伴天連《ばてれん》じゃあねえか」
 いつも柳枝はこう罵っていた。
「それもいいや。それもいいが、あげくに芝居の仙台様が、お脳気を患いやあしめえし、紫の鉢巻をだらりとして、弟子の肩へつかまって、しゃなりしゃなりと楽屋入りをしやがるたあ、なんてえチョボ一だ。そんなにまでして人気がとりてえという、了見方が情ねえじゃねえか。しょせんが芸人の子は芸人だ。親代々の芸人は根性からして卑しいや」
 こうもまた罵っていた。こうした悪口は、もちろん、圓朝の耳へも響いてきた。
 けれども、なんといっても相手は江戸一番の落語家――長い物には巻かれろと、圓朝はじっと歯を食いしばっていたのであるが、今宵ははしくも惚れたお絲と花火見物の船のなかで、その大敵の柳枝と、水を隔てる真ッ正面に対面してしまった。お絲はなんにも知らなかったが、圓朝は早くから気づいていたので、いまだ二十代の血気な彼は最前からしきりに一戦挑みかけたい闘争意識が火のように全身に疼いてならないのだった。
 が、そうした事情を知る由もない船頭衆は押し合いへし合う背後の船を避けようため、かえって圓朝の屋根船を、問題の前方へとグイとひと梶すすめた。すすめてしまった。
 と、一番弟子の柳条が、
「ねえ師匠、どッかのお天気野郎が、ごたいそうな首ぬきの、縮緬浴衣を見せびらかしにきていやすぜ」
 聞こえよがしのお追従《ついしょう》を言った。
 とっさに、圓朝はむかッとしたがしいて聞こえないようなふりをしていると、今度は、もうひとりの柳橋が、
「へっ、一張羅の縮緬浴衣を着ちらかして、水でもはねたらどうする気でしょう。縮緬という奴は水にあてて縮んだら、あしたの晩から高座へ出るワケにはいきやせんからなあ」
 言うなりかっと舟べりへ、さもきたないものでも見たあとのように唾を吐いた。べっ、べっ。なんべんもなんべんも吐きちらした。そうして、いつまでもやめなかった。
 たちまち圓朝はカーッとなった。体中の血潮が、グ、グ、グ、グ、と煮えくり返るような気がされてきて、
「コ、こんな浴衣は二十が三十でも俺んところにはお仕着《しきせ》同様転がってらあ。なあ、なあお絲」
 言ったかと思うと、にわかに立ち上がって舟べりへ片足かけ、
 エイッ。ひと声、もんどりを切ると、青々とした水中へ、ザブンとその身を躍らせた。
「やッ、身投げだ」
「身投げだ」
 口々に数万の見物は驚いたが、やがて、真相が知れ渡ると、
「ちがうちがう、そうじゃねえんだ。落語家の圓朝が、洒落に飛び込んで泳いでるんだ」
「エ、洒落に泳いで。フーム、生白い顔をしてる癖に圓朝て意気な野郎だなあ」
「意気だともよ。圓朝圓朝しっかり泳げ」
 われもわれもと花火そこのけで、彼らは圓朝を声援しだした。
「いけねえ、こいつァよけいなことを言って、かえって圓朝に落を取られた」
 苦々しげに顔見合わせる柳条、柳橋を尻目にかけて、圓朝はややしばらくその辺を泳ぎ廻り、もうよい時分とぐしょぐし[#「ぐしょぐし」に傍点]ょに濡れそぼけた縮緬浴衣のまんま、自分の船へ泳ぎつくと、
「おい、早く、そっちの浴衣を出してくんねえ」
 舟べりでどうなることかとハラハラしていた美しい横顔へ呼びかけた。
「あい、あい。お前さんあの、これで」
 スーッと立ち上がったお絲は濡れた浴衣をぬがせると、すぐに用意してあったもうひとつの寸分違わぬ首ぬき浴衣を、まだ体中水だらけの圓朝へと、ふんわり背中からかけてやった。
「剛気だな、オイ、圓朝って、あの素晴らしい縮緬浴衣、何枚持ってきてやがるんだろう」
「まったくだ、若えがど偉え度胸っ骨だぜ。たのむぞ圓朝ーっ」
 またしても八方の船から見物たちは、霰《あられ》のような拍手を浴びせた。もう柳条も柳橋もなかった。いや、さしもの大御所柳枝さえが、すでにすでに若い圓朝の前に、完全にその色を失って
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