と斬り口へ触ったから、ワーッと戸を蹴返して二人は表へ逃げだしてしまう。騒ぎに目をさました長屋の人たちが一人一人、戸のはずれている真っ暗がりの家の中へ入っていって籠の中へ手を突っ込んでは「フワッ、お長屋の衆」と悲鳴を上げる。また次のが入っては「フワッ、お長屋の」を繰り返す。何といってもここは故人圓右の独擅場で、無気味な中にもこみ上げてくる何ともいえないその可笑しさ。そうそうそういえばおもいだす雪ふるその朝、葛籠の棄ててある自身番の前ちかく、しきりに歯を磨いている若者が通りかかった友だちから近所の根津のことだろう、「大分お前このごろ繰り込んでもてるてえじゃねえか」とからかわれ、「ナ何、……そ、それほどじゃねえや」と脂《やに》下がりながらまた楊枝をモグモグさせてしまう塩梅、無類だった(圓朝全集のにはこの仕出し登場していない。圓右独自の演出だろうか)。それにはその時分、この「フワッお長屋の衆」という悲鳴を聞くたんび、私はありし日の江戸下町の生活をおもってひと長屋睦み合っている納まる御代の楽し艸《ぐさ》をいかばかり羨ましくおもい返したことだったろう。そののち私は大阪島の内、または新屋敷あたりの街裏を通るたんび再びこの「宗悦」や「権三と助十」などのお長屋風景をおもいだして、僅かに形骸だけはのこっていた少年時の旧東京の下町住居への仄かなる郷愁をおぼえていたら、思いは同じ谷崎潤一郎氏もチャンとこのほど「初昔」の一節で叙べていられる。
「震災後の東京の下町にはあの両側に長屋の並んだ路次というものが殆ど見当らなくなったが、大阪にはいまだにあれがある。繁華な心斎橋筋を東か西へ這入ったあたりの、わりに静かな街通りを行くと、家並が一軒欠けていて、その庇間《ひあわい》のような所にそういう路次の入口があり、時にはその入口にちょっとした潜り門のようなものが附いていて、奥の長屋に住んでいる人々の表札が並べて掲げてあることもある。またその潜り門の上に二階が附いていて、そこに人が住んでいるらしく、あたかも楼門のようになっているのもある。そういう路次は通り抜けが出来るのもあるが、大概は行き止りになっているのが多く、その袋小路の中は、熱閑の巷にこんな一郭がと思えるようにひっそりとしていて、電車や自動車の響も案外聞こえてこず、いかにも閑静なのである。子供の時分に東京にあった路次には、隠居、妾、お店の番頭、鳶の頭、大工の棟梁、といったような住人が多く、格子のうちに御神燈が下っていたり、土間の障子を開けた所がすぐに茶の間で、神棚、長火鉢、茶箪笥といった小道具よろしく、夫婦者が研き込んだ銅の銅壺でお燗をしながら小鍋立をしていたりしたのを見た記憶があるが(下略)」
 もうこれによって私のいわんとするお長屋の何たるかも改めてくだくだと説明には及ぶまい。ついでにあなた方は、
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焼海苔や米に奢りし裏長屋  龍雨
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 という句の意をおもいだして下されば、もうそれでいいのである。今や時局下の東京へもトントントンカラリの隣組は設置されたが、隣が青森県人で向こうが佐賀県人、まん中に茨城県人がという合壁の寄合長屋ではまだまだこの東京というところの辛うじて喘ぎのこっている伝統都市美の保存、もしくはすでに絶え果てた佳き風習風俗の再興を企てよう精神文化的な心組みまでには至るべくもない。大東亜共栄圏確立、五十年百年の後には再び圓右が宗悦の一節に聴いたような和気|藹々《あいあい》たる洗練東京の「隣組」が新粧されていようことをせめても私は死後に望んで止まないのみである。
 ――やがて深見新左衛門邸へは一年目の十二月二十日がめぐってくる。いやが上にも荒涼たる邸の中の、そこには奥方がひどいさしこみ[#「さしこみ」に傍点]で苦しんでいる。呼び入れた汚い按摩が揉みだすと、奥方の痛みはいよいよ烈しくなる。で新左衛門が自分のを揉ませてみると、なるほど、痛い。思わず痛いと殿様が呼ぶと「どうして貴方、まだ手の先で揉むのでございますから痛いといってもたかが知れておりますが、貴方のお脇差でこの左の肩から乳の処までこう斬り下げられました時の苦しみは」按摩がこういう。ハテナと見やると「恨めしそうに見えぬ眼を斑に開いて、こう乗り出した」盲人宗悦のすがたである。「己れ参ったか」、すぐ新左衛門は斬り付ける。ワッと相手は打ち倒れた。でも――気が付いてみると血まみれて倒れているは、なんの現在の奥方だった。ところでいま引用した「どうして貴方」以下は圓朝速記本に拠るものであるが、圓右の場合はもっと芝居めかして「まだ貴方、これほどの痛みじゃござりません、ちょうど去年の今月今夜、肩先かけて、乳の下まで」こういっていた。あるいは圓朝自身も芝居噺のときはこういう風に演っていたかもしれない。そのとき「エ」と殿様が振り返ると、こうダラリと両手を下げ、スーッと灰いろに尾を曳いてすくんでいる宗悦のすがた、圓右の姿はなくてそこにションボリ青ざめた宗悦の霊のみが物凄い半眼を見ひらいていた。生涯、忘れられないだろう。
 ところで圓朝は深見家の改易を座光寺源三郎が女太夫おこよを妻として召捕られたかの「旗本五人男」事件に関連させ、そのことによって巧みにこの新左衛門を惨死せしめている。即ち源三郎お咎めののち新左衛門は座光寺邸の宅番を仰せつかっていると、例の売卜者梶井主膳が「同類を集めて駕籠を釣らせ、抜身の槍で押し寄せて、おこよ、源三郎を連れていこう」とするため、抜き合わせて斬死してしまうとこういうのである。それにしても圓朝は「旗本五人男」という講釈の上に、かなりの関心を持っていたものと見ていい。なぜならかの「月に諷う荻江一節」、荻江露友を扱った物語の挿話でも同じく「五人男」中の此村大吉を登場させこの大吉の姿をモデルに中村仲蔵が例の五段目の定九郎をおもいついた一齣を挟んでいるからである。今日、圓馬、下って文治にのこる一席物の人情噺「仲蔵」は、これを独立させたものである。
 その結果深見の家は改易となり、それに先立ち兄新五郎はつとに出奔しているがまだ幼かった弟新吉のほうは門番勘蔵に育てられ、年ごろになっても勘蔵を真実の伯父とおもって暮らしている。勘蔵は下谷大門町に烟草屋を、新吉は始め貸本屋へ奉公していたが、のち掴煙草《つかみたばこ》を風呂敷に包みほうぼう売り歩いている。かくて根津七軒町の富本の師匠|豊志賀《とよしが》と相知るのである(これが宗悦の娘であることはすでに述べた)。三十九でまだ男を知らなかった豊志賀が、僅か二十一のそれも仇同士の新吉と悪縁を結び、同棲する。はじめのうちは何事もなかったが、そのうち稽古にきているお久という愛くるしい娘と新吉の上を疑ってクヨクヨしだしたのが始まりで、「眼の下ヘポツリと訝《おか》しな腫物が出来て、その腫物が段々腫れ上がってくると、紫色に少し赤味がかって、爛れて膿がジクジク出ます、眼は一方は腫れ塞がって、その顔の醜《いや》な事というものは何ともいいようが無い」。
 それが「よる夜中でも、いい塩梅に寝付いたから疲れを休めようと思って、ごろりと寝ようとすると」揺り起しては豊志賀、「私が斯《こ》んな顔で」とか「お前は私が死ぬとねえ」とか怨みつらみのありったけを並べ立てる。「不人情のようだがとてもここには居られない、大門町へ行って伯父と相談をして、いっその事下総羽生村に知っている者があるから、そこへ行ってしまおうか」とある夜、表へでる。パッタリ会ったのが、豊志賀が悶えの種のお久である。ところでこのときの新吉の言葉が巧い。「お久さん何処へ」と訊き、「日野屋へ買物に」とすぐお久が答えているのにもかかわらず、また少し経つと「お久さん何処へ」。また少し話が途切れると「お久さん何処へ」。とうとう不忍の蓮見鮨の二階へ二人上がり込み、差し向かいに坐ってまでもまだ「お久さん何処へ」を繰り返していることである。もうこれだけいっただけで説明にも及ぶまいとおもうが念のために蛇足を添えるならつまりぞっこん[#「ぞっこん」に傍点]と惚れ込んでいるこの自分の心をうっかり話の途切れに相手に悟られてしまってはならない、そうしたその思惑がつい何べんも何べんも「お久さん何処へ」と下らなく同じことばかり訊ねてしまってはいるのである。もうくどいほど繰り返している圓朝のこうした巧さ。でもやっぱりまたしても採り上げないわけにはゆかない巧さなのである。
 ところがこのお久も継母に虐められてばかりいる身の、とどいっしょに羽生村まで連れて逃げてくれという話になる。そのときお久「豊志賀さんが野倒死《のたれじに》をしてもお前さん私を連れて行きますか」と念を押すので「本当に連れていきます」、キッパリ答えると「ええ、お前さんという方は」たちまちこれが恐しい豊志賀の形相となって、大写しに。ワッと新吉はお久を突き倒して逃げ出し、大門町の勘蔵のところまで息せき切って駈け込んでくるのである。
 と、どうだろう、この伯父のところへ大病人の豊志賀がやってきている、しかも豊志賀はいつもとちがい「お前とは年も違う」から「お前はお前で年頃の女房を持てば、私は妹だと思って月々たくさんは出来ないが、元の様に二両や三両ずつはすける積り」その代り看病だけはしてくれ、またもしものことあらば死水だけは取ってくれと次々に大へん分った話ばかりするのである。こうしおらしくでられると新吉はもちろん、つい私たちまでがホロリこの薄幸な中年女の上に同情の涙をそそがないわけにはゆかなくなってくる。でもこれが圓朝という大魔術師のとんだ幻術であるということ、もうすぐあなた方は心付かれるだろう。
 間もなく豊志賀は町駕籠でかえることになる。このときいっしょにかえる新吉が「蝋燭が無けりゃ三ツばかりつないで」というのだが、三つつないだ短い蝋燭の灯の、おもっただけでもトボンと青黄色くうすら寂しい限りではあることよ。
 ところが駕籠を担ぎだすとたん、七軒町から駈け付けてくる長屋の者あって、無惨な豊志賀の死を告げる。愕いて駕籠のタレをめくると、中に豊志賀の姿はもうない。煙に捲かれたような顔をしてかえっていく駕籠屋のあと、今更のようにぞっとした新吉と勘蔵とが迎えの者と七軒町へかえっていくと、遺書がある。曰く「この後女房を持てば七人まではきっと取り殺すからそう思え」。
 伯父のところへやってきたときの豊志賀があまりにも殊勝らしいことばかりいっているだけ、いっときはあとのこの手紙の、身の毛もよだつもの、おぼえさせられるではないか。すなわち圓朝の幻術といった所以である。
「累ヶ淵」はまだまだ長い。冒頭述べたごとくここから新吉お久を連れて羽生村へ。だがやはり豊志賀の幻影に禍されて、お久を鬼怒川堤で殺してしまう顛末から、次第に新吉、身も心もうらぶれ果てて半やくざ同様となり、破戸漢土手の甚蔵を殺害するまで、決して詰まらない作品とはいえない。描写、会話、運びの巧さにおいても優に十箇所以上を採り上げて示すことができる。しかも「乳房榎」の場合と同じく「累ヶ淵」もまた最も鑑賞すべきは、江戸|歳晩《さいばん》風景の如実なる宗悦殺しに端を発し、凄艶豊志賀の狂い死にまでにあるとこれまた、点を辛くして高唱したい。
 挿話(?)として新吉の兄新五郎、同じく因果同士の豊志賀の妹お園とめぐりあい、うっかりお園のいのち[#「のち」に傍点]を終らせてしまうくだりや、のち[#「のち」に傍点]悪事を働き獄門台上にある新五郎の首が新吉の夢枕にあらわれるくだりなど、ここも因果ひといろで塗り潰されていながらしかし決して不自然ではなく運ばれている。もし『圓朝全集』第一巻「真景累ヶ淵」を通読されること以外に親しくその辺の口演に接したいといわれる方あらば、現、蝶花楼馬楽が引き抜き道具立の正本芝居噺によって味わわれたいといっておこう。馬楽は圓朝直門の、今は亡き三遊亭一朝老人から、手をとって教えられているのである。
 最後に結末ちかき力士花車登場以後の、大圓朝らしからぬ冗長至極の物語の構成に関しては、あえて私はこういいたい。あまりにも連夜の評判また評判が、自動他
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