我が圓朝研究
「怪談牡丹燈籠」「江島屋騒動」「怪談乳房榎」「文七元結」「真景累ヶ淵」について
正岡容
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)怪談牡丹燈籠《かいだんぼたんどうろう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)桃川|如燕《じょえん》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「王+甘」、第4水準2−80−65]
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三遊亭圓朝初期の作品たる「怪談牡丹燈籠《かいだんぼたんどうろう》」「鏡ヶ池操松影《かがみがいけみさおのまつかげ》(江島屋騒動)」「真景累ヶ淵《しんけいかさねがふち》」並びに代表作「怪談乳房榎《かいだんちぶさえのき》」「文七元結《ぶんしちもっとい》」の諸篇を検討してみよう。いわゆる欧化時代の横顔《プロヒイル》たる西洋人情噺の諸作については引き続いて世に問う『圓朝』後半生篇の附録に語ろう。「後開榛名梅ヶ香《おくれざきはるなのうめがか》(安中草三郎《あんなかそうざ》)」や「粟田口霑笛竹《あわたぐちしめすふえたけ》」や「塩原多助一代記《しおばらたすけいちだいき》」もまた逸《はず》すべからざる代表作品であるがこれらの検討もまた他日を期そう。
まず速記そのものについていいたい、冒頭に私は。
ひと口に速記というもの、大方から演者の話風を偲ぶよし[#「よし」に傍点]なしとされている。たしかにこれにも一理あってまことに速記は円盤と同じくかつて一度でもその人の話術に接したものにはいろいろの連想を走らせながら親しむこともでき、従って話風の如何なりしかをおもい返すよすが[#「よすが」に傍点]ともなるのであるが、そうでない限り、話術のリズムや呼吸、緩急などは、絶対分らないといってよかろう。
その代りその人の高座を知っているものに昔の速記はなかなかに愉しく、微笑ましかった。かりに「なか[#「なか」に傍点]申しておりまして」というような口調の落語家ありとすれば、その通り速記もまた「なか[#「なか」に傍点]申して」いたし、「客人何々を御存じか」などと風流志道軒の昔を今に大風《おおふう》な口の利き方の講釈師ありせば、これまた、速記も同じような大口利いていたからである。往年、私の愛読した『檜山実記――相馬大作』など「百猫伝」で知られた桃川|如燕《じょえん》の速記だったとおぼえているが、開口一番、如燕自ら今日の講釈師の不勉強不熱心をさんざんにこき下ろして、さて本題に入っている。すでにここが今日のいやに整頓されてしまっている速記とちがっておもしろいが、さらに第何席目かの喋りだしにおいては「ここ二、三日、宿酔の気味で休みまして」と正直に断っている。何もそんなこといちいち断らずとも読者には分らないのであるが、それをハッキリと断り、速記者もまた克明にその通りを写して紹介しているところがいよいよおもしろい。好もしくもある。然るに――さらにさらに終席ちかくに至ると突然|貞玉《ていぎょく》(?)とかいう人(のち[#「のち」に傍点]の錦城齋典山《きんじょうさいてんざん》だろうか、乞御示教)が突然代講していて、なんとこういっている。
「如燕先生は大酒が祟って没りました。で拠ん所なく今日からは私が……」云々。
読んでいて私、ふっと瞼の熱くなってきたことを何としよう。もはやここまでくると『檜山実記』の是非善悪より、この速記をめぐって、ある人生の一断面のまざまざと見せられていることに何より私はこころ[#「こころ」に傍点]打たれずにはいられなかった。元よりこうした場合は異例ではあるが、話風の活写には間然たるところありとしても、多かれ少なかれ何か昔の速記にはこうしたありのままの浮世はなれた風情がある。また演者の生活や好みの一断片がチラと不用意に覗かれる、夏の夕風にひるがえった青簾の中の浴衣姿の佳人のごとく。そこを何より買いたいのである。
こうした速記のとぼけたよさ――それのなくなりだしたのはいつからだろう。「講談雑誌」第一号から第十号までを私は愛蔵しているが、まだまだ大正四年ころのこれらの速記はいま読むと故馬生(六代目・先代志ん生)、故小せん(初代)、故小勝(五代目)、先々代つばめ(二代目)、現左楽(五代目)など、その高座を識るものにはたしかにその人と肯かれる話癖が浮彫りになっていて微笑ましい。ただし、何年何月何日誰某宅にて速記などと断り書きのしてあるのは真っ赤な偽りであると、日頃、今村信雄君から教えられ、とんだ罪の深い真似をしたものだねと、うっかり笑ってしまったけれど、よくよく考えてみればそうまでしてまで真実感をかもしだそうとした当時の速記者たちの努力は買ってやるべきだろうとおもうが如何。
いつからだろう、それが今日のような出鱈目至極のものとなり果ててしまったのは。
私の記憶にして誤りなくんば癸亥大震災後、ようやくに文学というもの企業化し、全くのジャーナリズム王国築かれて操觚《そうこ》世界へ君臨するようになって以来のこととおもう。そのころ発兌《はつだ》の娯楽雑誌関係者は故石橋思案、森暁紅諸家のごとく、常盤木《ときわぎ》倶楽部落語研究会の青竹めぐらした柵の中から生れきた通人粋子に非ずして、大半はこうした世界の教養を持たない地方出身の人々だったから、落語家講談師の一人一人のデリケイトな話風に立ち至ってまで知るよしがない。また相手として呼びかくる読者の大半、これまた地方大衆人に過ぎなかったから、いかに如実に演者の口吻を写しだしているか。そうした速記者の腐心など採り上げて買ってくれるよしもなかった。むしろ彼らはそうした風趣をば無用の夾雑物《きょうざつぶつ》と非し、ひたすら、物語本位、筋本位の安価低俗の構成を要求したのだろう。明治開化以来の愛読に価する講談落語の本格速記の伝統は、このときにして崩壊しつくしたりというも全く過言でない。
現に私は記憶している、昭和八、九年のころ現三笑亭可楽君(八代目)は某々紙上において自らの落語速記を、他の誰のであったか、全く別箇の落語と半分ずつ接ぎ合わせたまやかし物を自演として発表され、大腐りに腐っていたことを。芸術の冒涜もまた、ここに至れば極まれりというべしである。落語家社会においてかりに前半に「天災」を語り、後半たちまち「廿四孝」に映ることありとせば「掴み込み」と蔑称し、そは田舎廻りのドサ真打の仕草と嘲り嗤われてやまざるところのもの。往年の可楽君の悒鬱《ゆううつ》、今に至るも察してあまりあるものである。あるいは全くその演者の演ぜざる物語にいい加減の名前を附し、発表されることも少なくなかった。例えば現文楽(八代目)が「和洋語」を演じ、現小さん(四代目)が「五人廻し」を演じている速記のごときである。
ここ数年来、講談社の諸雑誌など、頓《とみ》に講談落語の速記を尊重しだし、親しく自宅へ速記者を派遣せしめ、また演者自らの執筆のかかるものを選びて掲載するなどの傾向を生じてきたのは喜びに堪えない。到底、往年の無用の用ある風雅味などは見るべくもないが、まだしもこれは実際の口演だけに取柄ありとしよう。ジャーナリズムはようやくにして話術の面白味の何たるかを悟り、これが尊重に目醒めてきたのか――然りとすればかつて片っ端から都下の井戸井戸を埋めさせた東京市の、近時、しきりに掘り返させているのにも似ているといえよう。
閑話休題――そういう風に速記というもの昔日のものといえども、高座人の話術の活殺はついに知らしむべくもなかったけれども、さすがに往昔の講談落語の速記の中からは演者の描写力や構成力や会話技巧のよしあしなど充分以上に汲み取ることができる。そうして一般話術家は元より、私たち作家にとってもそこに学ぶに足るもの多々ありといい切れる。
ことに圓朝の速記においては、そのころ若林※[#「王+甘」、第4水準2−80−65]蔵《わかばやしかんぞう》子を始めとして当時の速記界の第一流人が挺身、これに当っている。聞説《きくならく》、若林※[#「王+甘」、第4水準2−80−65]蔵子某席における圓朝が人情噺を私《ひそ》かに速記し、のち[#「のち」に傍点]これを本人に示したとき、声の写真とはこれかと瞠目せしめたのが、実に本邦講談落語速記の嚆矢《こうし》ではあるとされている。即ちそれほどの速記術草創時代だったから、圓朝の一声一咳は全篇ことごとく情熱かけて馬鹿正直にまで写しだされているのである。で、それらの速記をたよりとして圓朝つくるところの諸作品を、以下あなた方とともに検討していこう。
「怪談牡丹燈籠」
「牡丹燈籠」は拙作『圓朝』の中でも記しておいたとおり、最も人口に膾炙《かいしゃ》された代表作である上に、「累ヶ淵」「皿山畸談」とともに今日のこっているものの最古の作品にかかっている。で、最初にこれを採り上げることとした。もっともこの速記本の上梓《じょうし》されたは明治十七年、作者四十六歳の砌《みぎり》であるから、すこんからん[#「すこんからん」に傍点]と派手に画面の大見得を切った芝居噺のころの構成とはよほど異なっていることだろう。もちろん、後年のほうが燻《いぶ》し銀のような渋さに磨きがかかり、恐らく一段も二段もよくなっているだろうにはちがいない(今日この速記を読んでいくと僅かに一ヶ所、後半の伴蔵が源次郎に啖呵を切るくだりで芝居噺をおもわせる口吻が感じられるが、その場合はむしろのこっているだけ作品としてはありがたくない場合であること、後述しよう)。
さてこの「牡丹燈籠」には春のやおぼろ(坪内逍遙博士)が絶讃の序文を寄せている。全篇の人物、活けるがごとく写しだされているのは圓朝の話術が迫真だからで「皮相を写して死したるが如き文」している手合は圓朝の前に愧死《きし》せよとまで激賞しているのである。この序文の通褒《つうほ》でないことはあなた方もこの鑑賞をすすめていくとともに、容易に肯いて貰えるだろうが、それにしても春のやおぼろが『書生気質』一篇に洛陽の紙価を高らしめたは翌明治十八年であるが、年譜に拠ると『春風情話(ランマムープの新婦)』『該撒奇談』『リエンジー』『春窓綺話(レデー・オブ・ザ・レーキ)』『自由太刀余波鋭鋒』などすでに上梓しているし、文学士の称号もまたその二年前、授けられている。おもうにそのころ二十七歳のおぼろは漸《ようや》く新進作家として名声|嘖々《さくさく》たるものありだしたときだったのだろう。
「牡丹燈籠」のモデルについてはこれまた『圓朝』の中で述べつくしたから繰り返さないが、何より構成法として効果的だとおもわされるのは、平左衛門、孝助の因果物語をAとし、お露新三郎の恋と怪奇をBとし、AB二つのこの物語を隔晩に演じ、それぞれクライマックスのところまで持っていっては、お後《あと》明晩と鮮やかな小手投げをくわしている手際である。こうした二つの物語をテレコに運んでいく手法は南北にも黙阿弥にも屡《しばしば》見られる江戸歌舞伎の常套的作劇法であるが、それを話術の上へ、こうまで鮮やかに移し植えたは圓朝独自の働きとしていいだろう。ABをテレコに運ぶ構成の効果は明らかに演劇よりも人情噺の上においてのほうが甚大で、舞台においてはただ幕ごとにガラリガラリと目先が変っていくおもしろさだけであるが、高座の場合は昨夜のつづまりやいかにとAの物語に釣られてきたお客が、翌晩はおもいもかけないまた別のBのおもしろい物語に酔わされ、このBの結末もまたいかにと二倍に吸引されてきてしまうわけになる。同時にはじめてBの物語に魅かれてきたお客が翌晩Aの物語を聞かされてまた感嘆してしまった場合も同様。従ってこれはまさしく当時として極めて有効な八方睨みの客寄せ法といってかなりだろう。
発端はすなわちそのA――若き日の飯島が本郷の刀屋の前で、酒癖の浪人黒川孝蔵を無礼討にするこれがプロローグのように点出されている。そしてこの間何年相経ち申し候ということになり、次にはお露新三郎のくだりとなるのである。萩原新三郎を、飯島の
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