娘お露の柳島の寮へさそっていくお幇間《たいこ》医者山本志丈を、「大概のお医者なれば一寸《ちょっと》紙入れの中にも、お丸薬や散薬でも這入っていますが、この志丈の紙入の中には手品の種や百眼《ひゃくまなこ》などが」云々と紹介しているのは、いかにもその人柄が一目瞭然とされておもしろい。しかもそのすぐ直前、この人は古方《こほう》家ではあるが諸人助けのために匙をとらないなど、落語家圓朝にしてはじめていい得る天晴れなギャグとおもう。
 次いで寮へ上がり込んだところでは、志丈をしてここへくる前立ち寄った臥龍梅における新三郎の句を「煙草には燧火《すりび》のむまし梅の中」、志丈自身のを「梅ほめて紛らかしけり門違い」と披露せしめている。いずれも圓朝自らの作句とおもうが、いかにもそれぞれの人らしい感じのでている上にさして月並でない。嫌味なく思いのままをうたっているところ、さすがとおもう。余談であるがこの志丈、今は亡き尾上松助が当り役で、これも今は亡き増田龍雨翁に、すなわち句がある。
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西瓜食えば松助の志丈などおもう
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 それにしてもここで互いに憎からず、おもいあったお露と新三郎を、次の次の章においては志丈、「もし万一の事があって、事の顕われた日には大変、坊主首を斬られなければならん」と事情あくまで推察しているくせに「二月三月四月」と萩原の許へ立ち廻らない。こうしたところにいよいよ志丈という男の大悪人ではないが、おざなりな自分本位の人間たることがよく表わされている。
 そのひとつ前の章――即ち孝助が主人飯島平左衛門に前半生を物語り、初めて先年無礼討にした酒癖の浪人黒川孝蔵の忰であったか、よし、ではいつかはこの不憫の奴に討たれてやろうと決意させるくだりにおいては「まず一番先に四谷の金物商へ参りましたが、一年程居りまして駈け出しました、それから新橋の鍛冶屋へ参り、三月程過ぎて駈け出し、また仲通りの絵草紙屋へ参りましたが、十日で駈け出しました」云々と孝助にこし方を語らせている。すでに拙作『圓朝』の「初一念」の章を読まれた方々はこのくだりを読まれてたちまち思い半ばに過ぐるものあるだろう、こうした孝助の転々さは圓朝自身の少年時の姿を毫末も変らず、吐露し、ただ圓朝の初一念は落語家にあり、孝助の初一念は武家奉公にあり、僅かにそこだけがちがっているばかりだからである、でも共に見ン事その初一念貫きとおした点では両者同一に賞められてよかろう。そこで平左衛門がどうしてさまで[#「さまで」に傍点]武家奉公がしたいと訊ねる、ハイ剣術を習って親の仇が、してその親とは……とこう問い問われてきてはじめて黒川孝蔵の遺児《わすれがたみ》たることが分る段取りにはなるのである。少し話が前後してしまったけれど。
 一方想いに耐え兼ねた新三郎は船を仕立てて柳島の寮ちかく漕ぎ寄せさせる、そして首尾好くお露にめぐりあい、語らっているとお露の父平左衛門に発見《みつけ》られ、あわや一刀両断の処置にあわんとして南柯《なんか》の夢さめる、何事もなく身は船中に転寝《うたたね》していたのであるが、「飯島の娘と夢のうちにて取り交わした」香箱の蓋はまさしく手にのこっている。ここらの怪奇も生々としていて、冴えている。さらにその香箱が「秋野に虫の模様」であるのはいよいよ凄味があってよいではないか。
 それからまたひと月経った六月の末、志丈は久々で新三郎を訪ねてきてお露様がお前に焦れ死んだとつたえる、しかもあくまでオッチョコチョイにできている志丈、喋るだけ喋ると寺も何もいわないでアタフタかえっていってしまう。寺を教えないでかえるためにあとの怪異が自然に進行し、発展する。その発展のためには志丈のこうした性格がまたあくまで自然に役立っている。こうしたところも、春のやおぼろではないがかいなで[#「かいなで」に傍点]の作家には真似られぬ圓朝の冴えが見られるとおもう。ところで牡丹燈籠提げて駒下駄の音物凄きお露お米の怪異は、その晩のうちにおこなわれるのである。二人の姿をみつけた新三郎がアッとおどろく前に、乳母のお米のほうが「貴方様はお亡くなり遊ばしたという事でしたに」と目を瞠っている。で、お前様こそお嬢様のお亡くなりのあと看病疲れで亡くなったと、聞きましたにと新三郎がいぶかると、いよいよお米は呆れたのち、「うちにはお国という悪い妾がいるものですから邪魔を入れて志丈に死んだといわせ」たのだろうとこういう。ここにおいて新三郎同様その晩のお客もまた、ではやっぱりこの二人の死んだというはお国の詐略だったかと易々と信じさせられてはしまうのである。というのが、お国とは平左衛門がお露の母の死後つい引き入れた悪婆で元々この女と合わないため乳母と二人、寂しく柳島の寮で暮らしているお露ではあることを初晩以来、お客といえども知らされているから。こうした段取りもやはり憎いほど圓朝は心得たものだとおもう。
 かく物語の発展していくうちも平左衛門と孝助のA、お露新三郎のBと、相変らず物語はAB、ABと隔晩に交互して運ばれていっているのであることもちろんで、今後はいちいち断らないからその積りで読んでいって頂きたい。すなわち一方、飯島の家においてはそうしたお国なればこそ、隣家次男坊宮部源次郎とわりなき仲となっていて、釣に事寄せ平左衛門を殺そうとさえ企てているため、私かに聞き知った孝助が躍起となって主の大難を未然に防ごうとしている。そうした最中に飯島の知人相川新五兵衛が訪ねてくる。新五兵衛は娘のおとくが孝助に恋患いしているので、飯島まで孝助を貰いにやってきたのであるが、この新五兵衛のいかにもそそっかしい好々爺ぶりも春のやの賞讃しているとおりじつによく描かれている。否、ことによると「牡丹燈籠」全篇を通じて相川老人が一番ありありと描けているかもしれない。「娘の病気もいろいろと心配も致しましたが、何分にも捗々《はかばか》しく参りませんで、それに就いて誠にどうも……アア熱い、お国さま先達《せんだっ》ては誠に御馳走様に相成りましてありがとう。まだお礼もろくろく申し上げませんで、へえ、アア熱い、誠に熱い、どうも熱い」といった風にである。一読、赤銅いろの禿げ頭した背の低い小肥りした憎気のない老武士が髣髴としてくるではないか。
 萩原宅では、夜ごとお露お米がおとずれてくる。隣家の伴蔵が覗いてみれば「骨と皮ばかりの痩せた女で、髪は島田に結って鬢《びん》の毛が顔に下り、真っ青な顔で、裾がなくって腰から上ばかり」なのである。仰天して近隣の売卜《ばいぼく》の名人白翁堂勇齋のところへ駈け込むのだが、そのとき圓朝はこの勇齋をして「尤も支那の小説にそういう事があるけれども」といわしめている点も不敵なほど、「芸」の迫真の何たるかの奥秘を悟りつくしているものといわなければならない、お露の名が圓朝を贔屓にした北川町の玄米《くろごめ》問屋近江屋の嫁の実名であり、その家に起こった因縁噺が怪異のヒントとなっているとしても、萩原新三郎の名のほうは『牡丹燈記』の邦訳たる浅井了意が『伽婢子』の中の萩原新之丞が転身たること明らかである。見す見すそこに材を得ていながらハッキリ「支那の小説」云々とそれを匂わせることによってかえって、その原話とは別な真実感を漂わすなど、作家としてもよほどの苦労人といわねばなるまい。
 勇齋に死相ありと脅された新三郎は新幡随院の良石和尚にあい、金無垢の観世音と両宝陀羅尼経とを貰う。そのときに和尚が「この経は妙月長者という人が、貧乏人に金を施して悪い病の流行る時に救ってやりたいと思ったが、宝がないから仏の力をもって金を貸してくれろといった所が、釈迦がそれは誠に心懸の尊い事じゃといって貸したのが、すなわちこのお経じゃ」と陀羅尼経の所縁を説き明かしていることもへんにありがたそうな実感がでていて結構である。この種の技巧の例は今後もいろいろの作品をつうじて屡々《しばしば》でてくるが、ことに圓朝はこうした教養というか用意というか、その点が秀れている。ありがたい観音様に守られ、経文に守られ、軒々へもお札《ふだ》を貼りめぐらしてしまったため、その晩、お露の霊は新三郎のところへ入ることができない。恋しさに耐え兼ねて、よよと闇中に泣きくずれる。すなわちそこがその一席の切り場であって「もしや裏口から這入れないものでもありますまい、入らっしゃいと手を取って裏口へ廻ったが矢張這入られません」と速記はここで次章へと移っているのであるが、かつて先代林家正蔵(七代目)は圓朝門下の大才圓喬のこのくだりのあまりにも水際立っていた点を極力私にたたえて聞かせ、当時の圓喬の演出は「矢張り這入れません」とのみポツンと切ってしまわず、怨めしそうにお露が軒端を見上げてまたもや泣いじゃくるのをお米がなだめてもういっぺん横手ヘツーッと……。この「ツーッと」を右手で形をしながら、「ツー」くらいまでいいかけて、
「……いやあまりお長くなりますから」
 と小声で世話に砕けて下りていくといった風だった由である。たしかにこの演出のほうが心憎いほど我々に水尾曳いてのこる余韻がある。或いはのち[#「のち」に傍点]には圓朝自身この演出を工夫し、それを弟子たる圓喬がつたえたものかもしれない。
 妾のお国は孝助の存在を憎むのあまり、源次郎の邸の若党で「鼻歌でデロレンなどを唄っている愚者《おろかもの》」相助をおだてて危害を加えさせようとするのであるが、この相助の用語がおよそ特異でいかにも愚鈍に感じられるからおもしろい。曰く「憎《にく》こい[#「こい」に白丸傍点]奴でございます、(中略)何時私が御主人の頭を打《にや》しました(中略)これははや金子《けんす》まで」などというのであるが、にっこい[#「にっこい」に傍点]とか、ごじいます[#「ごじいます」に傍点]とか、にやす[#「にやす」に傍点]とか、けんす[#「けんす」に傍点]とか、聞くだに鈍な感じが深い。圓朝門下には俊才も少なくなかったが、同時にぽん太とかコマルとかへん朝とか愚かを以て鳴る名物男も存在していた。あるいはこれらの誰かがモデルだったかもしれない。
 お国の策動はいよいよ烈しくて今度は自分の屋敷の若党源助をおだてて、孝助を陥《おと》し入れようとする。この源助の性格もまたよく描かれている。なぜならおだてられて源助、いろいろ孝助を打擲するくせに、何もかも承知している平左衛門がワザと後刻孝助を手討にするというと、「孝助お詫びを願え」、また少し経つと「お詫びを願わないか」しきりにこういって孝助をさとしているからである。なんと正直一途の性格であることが、ハッキリと分るだろう。この源助などは今後さして活躍もせず、いわば仕出し同様の存在なのであるが、それにもチャンとこうした性格を与えている。かつての私の話術の師たる、現三遊亭圓馬(三代目)は大師匠の手記を見ると、全く登場しない女中の年齢までかいてあるのに瞠目したと語っていたが、この源助の場合など考えるとき、たしかにそうしたこともあり得たろうとおもわないわけにはゆかない。
 かくて第二次のお国の計画も画餅《がへい》に帰したが、平左衛門大難の日は刻々と迫ってくる。しかもその前夜、平左衛門は、姦夫源次郎の姿に身をやつして、ワザと孝助の槍先にかかってしまうのである。はじめにいったとおりしょせんが自分は孝助の親を斬って棄てた仇の身の、我から討たれてやるつもりだったのである。主家のため憎い源次郎を討たむとして主人を手負いにしてしまった孝助の驚き、仇同士と聞き知っての愁嘆、まことに人生の一大悲劇であるが、こうしたところは残念ながら速記ではほんとうの「味」は分らない。てんで[#「てんで」に傍点]さし迫った演者の呼吸が感じられてこないからである。ただ孝助は今宵こそ源次郎を突き殺して自分も切腹してしまおうとおもっているから「泰平の御代とは申しながら、狼藉ものでも入る」といけないとて槍を研ぎはじめる。それを平左衛門は「憎い奴を突き殺す時は錆槍で突いたほうが、先の奴が痛いから」いい心持だと止め、それもそうだと孝助は止めてしまう。あに
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