の二度迄の繰り返しあって、是が非でも長兵衛、金を恵まねばならなくなってしまうのである、相変らずの用意周到の段取りとおもう。
ここからここに百両持ってはいるが――と可愛い娘を売った謂れを涙まじりでひとくさり聞かすので、相手は「何う致しまして左様な金子は要りません」。
ところがそういわれると長兵衛ほんとに金をやりたくなくなりそうになるので心を鬼に[#「ほんとに金をやりたくなくなりそうになるので心を鬼に」に傍点]、「人の親切を無にするのけえ」といいながら放りつけて往く。それ故にこそ長兵衛先方の名も聞かず、所も聞かず、相手もまたその通りなのである。
打ち付けられた男のほうは「財布の中へ礫《つぶて》か何か入れて置いて、人の頭へ叩きつけて、ざまあ見やがれ、彼様《あんな》汚い形《なり》を為《し》」た奴がなんで百両持っているものかと「撫でて見ると訝しげな手障りだから」開けてみると正《まさ》しく百両。にわかにハッと影も形もなくなってしまっている後姿を両手合わせて拝むのである。圓馬はここでいっぺん懐中した財布をまた落としちゃ大変だと気がつくこころであわてて内懐中《うちぶところ》へ、初めて両手で拝んでいる。この演出もまた心理的で秀れている。
――場面変って白銀《しろがね》町三丁目のその男の主人の家。ここでまだかえらない男の上を案じている主人に番頭が「使いに出すと永いのが彼《あれ》の癖で」と讒訴を上げているのは、前に吾妻橋で男が長兵衛に自分は身寄りのない上に御主人が「あまり私を贔屓になすって下さいますもんですから、番頭さんが嫉んで忌な事を致しますから、相談も出来ませんが」と訴えているだけに自然でいい。なればこそ、この主人こんな若僧に大枚のお払い金など取りにさえやるのである。
そこへ長兵衛に貰った百両持って男はかえってくる。ところが盗られたとおもった金はお得意先で碁のお相手をはじめ碁盤の下へ置き忘れてきたので、つとにそのお金、先方様からは届けられていたのだった。おどろいて逐一、男は吾妻橋での事情を打ち明け、しかも助けてくれたその人は、娘を佐野槌へ売った金ゆえ「これをお前に遣るが、娘は女郎にならなけりゃならない、悪い病を受けて死ぬかも知れないから、明暮凶事のないように、平常信心する不動様へでも何でも、お線香を上げてくれと、男泣きに泣きながら頼みましたが、旦那さまへ、何うか店の傍へ不動様をひとつお拵えなすって」とオロオロ頼みだすのである。
翌日、主人の命を受けて番頭はどこかへでていったが、やがてかえってきて何やら報告すると今度は主人が文七を供に、観音様へ参詣するが、吾妻橋へ掛かりました時に「ああ昨夜ここンとこで飛び込もうとしたかと思うとぞっとするね」と男にいわしめているのはさすがである[#「さすがである」に傍点]。いわずとしれた主人が吾妻橋を渡るのは本所達磨横丁の長兵衛宅へ。昨夜の礼に行こうとするのである。その直前に観音様へ参詣したは、愛するその奉公人の危難を免かれた御礼詣りだろう。どこ迄もこの旦那、よい人であることが、こうした動作ひとつで如実に分ってくるところ、繰り返すようだが凡手でない(どうして旦那に長兵衛の住所が分ったか、それはもう少しあとまで読者よ聞かないでいて貰いたい)。
長兵衛宅を訪ねあてると、家内《なか》では昨夜から終夜《よっぴて》の大喧嘩である。無理もない、町ところもしらず名もしらぬ男に娘を売った大枚百両恵んでしまったというのだからお神さんの信用しないのも。「ふん、見兼ねて助ける風かえ、足を掬って放り込むほうだろう」とお神さん、さながらいま志ん生の得意とする裏長屋の神さんらしい調子で応酬してくる、てっきり[#「てっきり」に傍点]またどこかで丁半を争ってしまったものとひたすら泣いて口惜しがってはいるのである。そこへ「長兵衛さんとおっしゃる棟梁さんのお宅はこちらで」と旦那が訪れると「ええ何に棟梁でも何んでもねえんで」とうちの中で長兵衛自身術もなく棟梁を否定し、そのあと「へへへ、縮屋さんかえ」という呼吸――いかにもこうありそう[#「こうありそう」に傍点]ではないか。
旦那きたり、昨夜の男きたり、晴天白日の身となった長兵衛の喜び、いや察するにあまりがある。このとき旦那の「私どもも随分|大火災《おおやけど》でもございますと、五十両百両と布施を出した事もありますが、一軒一分か二朱にしきゃァ当りませんで、それは名聞《みょうもん》」あなたのようなお方は「実に尊い神様のようなお方だ」と激賞したのち、金子《きんす》を返すと、そこは長兵衛江戸っ子の、いったんやったお金はいらないという。旦那のほうでもそれは困るから取ってくれという、あくまで長兵衛はいらないという、そのうち「だがね、どうも……だからよ、貰って置くから宜《い》いじゃねえか……」というところを見ると、ひどい扮《な》りのため最前屏風のかげへ隠れてしまっていたお神さんがハラハラして長兵衛の袂をしきりに引っ張っているのだろう、こんな僅かの会話の中で、それが見える[#「見える」に傍点]。
旦那はこの者は身寄りのない者ゆえ、あなたのような潔白のお人の子にしてやってくれ、そうして自分とも親類|交《づきあ》いをしてくれといいだす。そこへ「親子兄弟固めの献酬《さかずき》」のお肴が届く、四つ手駕籠で。いつかこの旦那によって佐野槌から引かされてきたお久が「昨日に変る今日の出で立ち、立派になって駕籠」から下り立ったのである(読者よ、旦那に長兵衛の住居の分ったのはけさお久身請に番頭が佐野槌までひと走りしてきたからである)。やがてお久はその男と夫婦になり、麹町六丁目へ暖簾を分けて貰い、文七元結の店を開く。いう迄もないことだが、文七文七というのはこの若者の名前なのである。
それにしても一番終りの場面の、お久かえりぬと聞いて嬉しさのあまり、母親お兼が「オヤお久、帰ったかえといいながら起《た》つと、間が悪いからクルリと廻って屏風の裡へ隠れました」というこの演出も見事である。「間が悪い」の上へひどい扮りをしていますからなどとひと言も断っていないところに注目して貰いたい。そうして涙の中にドーッと笑わせたすぐそのあと「さてこれから文七とお久を夫婦に致し、主人が暖簾を分けて、麹町六丁目へ文七元結の店を開いたというお芽出たいお話でございます」と少しも持って廻らず[#「持って廻らず」に白丸傍点]、トントンと運びめでたくたちまちおしまいにしてしまっている手際よ。
希《ねがわ》くは何とかして私、「文七元結」の圓朝以前のものが知りたい。我が圓朝の、原作のどこへどう細工を施したか、それを知ることによっていっそう圓朝という人の特別の技量の、いよいよ私たちの前に明らかにされるだろうから。
「真景累ヶ淵」
安政六年圓朝二十一歳の作品。しかも素噺転向後の第一声としても絶対高評だったとあれば、一番圓朝にとってもおもいで深き作品だったろうとおもう。事実、宗悦殺しにはじまって甚蔵殺しまで、ことごとくこれ息をも吐かせぬおもしろさである。芸術的な匂いもまた、かなりに高い。但し、その後の花車という角力のでてくる辺りからは全くの筋のための筋で、およそつまらない。なぜそのようにつまらなくなってしまったのか、ということについては最後において述べよう。
まず毎度ながら圓朝の教養は、このまくら[#「まくら」に傍点]においては断見の論という一種の唯物論を見事に覆《くつが》えした釈迦の話から神経病の存在、ひいては幽霊の存在肯定説を簡単に披瀝している。前掲綺堂先生の随筆にも見らるる通り何しろ世を挙げての欧化時代、その真っ只中で怪談噺で一世に覇を唱えた彼圓朝である。まくら[#「まくら」に傍点]においてこのくらいの用意あったは当然のことだろう。またこのくらいの用意あってかからなかったらいくら名人上手といえども最高潮場面に達する以前に心なき文明開化のお客たちの笑殺するところとなってしまっててんで[#「てんで」に傍点]相手になんかされなかっただろう。錦城齋典山は人も知る金襖、世話物の名人であるが、その典山にして晩年は「怪談|小夜衣草紙《さよごろもぞうし》」を読むたびに、左のごときことあったと増田龍雨翁は「木枕語」なる随筆中で憤慨されている。引用してみよう。
「典山はこのごろ何の感違いをしているのか、怪談をよむ前に、怪談の語るべきものでない、そんなことのあるべき筈がない、『開明の今日は、ちと馬鹿馬鹿しいお話で』と、怪談をめちゃめちゃに踏みにじってから、怪談にかかるのだから矛盾もまた甚しい。第一凄味もなにも出ない」云々。
あの典山にして大正から昭和初頭へ。モダン文化のネオン燦然たる前には百年変らざる伝統の世話講談を繰り返している自分に忸怩《じくじ》たるものをおぼえ、思わずこうしたことを呟いてしまったのだろう。けだしモガモボ時代の昭和初年も、鹿鳴館花やかなりし明治開化期も、いずれは同じ米英化一色の時代である。その時に当って我が圓朝は敢然と開化人を膝下に集めて時下薬籠中の怪談のスリルを十二分に説きつくし、典山のほうはこの醜態を曝露している。今日、神田伯龍あたりが意味なく時代に迎合してせっかくのお家芸をば放棄している、思えば無理からぬ次第といえよう。
――さて小石川服部坂の旗本深見新左衛門、盲人宗悦に借りた烏金《からすがね》が返金できずつい斬り棄ててしまう。この宗悦の娘で富本の師匠たる豊志賀《とよしが》が、新左衛門の遺子で十八も年下の新吉と同棲する。こうした因果同士の結合がすなわち、「累ヶ淵」の発端である。
雪|催《もや》いの十二月二十日、宗悦は新左衛門宅へ催促に行くと、「おい誰か取次がありますぜ、奥方、取次がありますよ」と新左衛門自らいい、「どうれ」とやがて奥様がでてくる。まず以て貧寒の旗本屋敷がアリアリと目に見えてくる。つづいて上へ上がった宗悦が「何か足に引掛」ったというと、奥方が「なにね畳がズタズタになってるから」ますます寒々とした邸内の有様が髣髴としてくる。しかもその最中に殿様は酒浸りになっている。そして宗悦にも飲ましてやりたいとて、「エエナニ何か一寸、少しは有ろう[#「少しは有ろう」に白丸傍点]」と奥方にこう呼びかける。「少しは」はこの場合、特に寒い。それには強《したた》かに酔っていながらも新左衛門、相手の督促にきたことは百も承知のそれが気になって気になってたまらないものだから「宗悦よくきた、さァひとつ」「まァ宗悦よくきたな」とふた言目にはこういっている。いかにもこうした場合にこうした人のこうしかいえない言葉でいて、さてイザ書こうとするとき、なかなか書けないところの言葉である。
宗悦が返金を切りだす、もう少し待てと殿様が断る、そのときひと膝乗り出した宗悦が「私はこういう不自由な身体で根津から小日向まで、杖を引っ張って山坂を越してくる[#「山坂を越してくる」に白丸傍点]のでげすから」根津から小石川小日向へまでを「山坂」云々はいかにもそのころの辺陬《へんすう》の感じがあらわれていて、時代風景的におもしろい。我が愛蔵の明治二十年代の東京地図にして現今の小石川区林町あたり、林村と記されている。当時は「山坂」が当然だろう。
とうとう宗悦は新左衛門の一刀にかかって殺されてしまう。新左衛門は家来に命じて屍骸を葛籠《つづら》へ。棄てにやる。もうおもてはしんしんと雪ふっている。葛籠は「根津七軒町の喜連川様のお屋敷の手前に、秋葉の原があって、その原の側」の自身番の前へ棄てられる。翌朝これを慾張りの上方者夫婦が自分の落とし物だといって引き取ってくる。それを同じ長屋に燻《くすぶ》っている悪が二人、夜に入るを待って盗みだす。盗んできた二人は暗中、手触りで葛籠の中をかき廻すのだが、まず油ッ紙へ触ると「模様物や友禅の染物が入ってるから雨が掛かってもいい様に」してあるのだと喜び、冷たくなっている宗悦の顔へ触ると、これは宿下がりの御殿女中の荷物で「御殿の狂言の衣裳の上に坊主の髢《かつら》が載ってるんだ」とまた喜ぶ。ところがさらにキュッと手で押さえ付けるとグニャッ
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