るのであるが、最後に真与太郎五歳にして磯貝浪江を討つに至る段取りも心理的にいささかの無理がなく、およそ自然である。
 七月十二日迎え火を焚きながらすっかり聞き分けのない田舎っ子になってしまっている真与太郎へ、「お前も今年は五つだから、少しは物心もつく時分だが」とまことの父は自分でなく、菱川重信という立派なお人で、どうかそのお父さまの仇磯貝浪江を討って下されと涙ながらに正介が説いて聞かせている。「ええか、今にその浪江という奴に出会《でっくわ》したら、この刀で横腹《よこっぱら》抉って父さまの仇ァ討たんければなんねえ、ええか、(中略)こんなに錆びているだが、このほうが一生懸命ならこれだって怨は返せる、己、助太刀するから親の敵を、ええか、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」という風にである。
 間髪を容れず、そこへ当の浪江が入ってくる(赤塚在に二人がいると聞き、すでにおきせは狂死した後だし、いっそ今のうち二人を討ち果たして一切の禍根を除こうと決心してやってきたからである)。そうして抜く手も見せず斬り付けてくると「葺下しの茅葺屋根ゆえ内法《うちのり》が低いから、切先を鴨居へ一寸ばかり切り込んでがちり」。
 正介は「坊ちゃまそら敵だッ」と仏壇の陶器《せともの》の香炉を打ち付ける、灰が浪江の両眼に入る、ここぞと正介は「樫の木の心張棒で滅多打ちに腰の番《つがい》」を三つ四つ喰わした。「不思議やこの時まだ五歳の真与太郎でございますが、さながら後で誰かが手を持ち添えてくれますように、例の錆刀を持ちまして」浪江の横腹をひと抉り抉ったのである。
 いまのいままで迎い火焚きながら物語っていたというところだけに、五つの真与太郎にしても錆刀で相手に斬り付けていくことが何だか自然におもわれるではないか。いわんや「後で誰かが手を持ち添えて」くれるようであるというにおいてや。
 田舎家で天井が低く、浪江の刀が鴨居へ。そこへ仏壇[#「仏壇」に白丸傍点]の香炉をぶつけたというのもいかにも亡魂の指図らしく、そのあと樫の木の心張棒という、万事万端無理のない小道具や段取りがいかにこのひとつ間違ったらあり得べからざるとおもわせるような奇蹟をほんとうのものとしているかよ、である。
 極めて点の辛い立場から私は重信殺し前後のみを「怪談乳房榎」中の採るべき箇所といったけれど、最後に至るまでの各章も決して「江島屋」のような破綻は毫《ごう》も示していないのであるばかりでなく、「怪談乳房榎」は圓朝全作中での、かなり高く買われていいものということをすら述べて置こう。
 最後にこの「怪談乳房榎」の挿絵、圓朝とは國芳門下の同門である落合芳幾が描いている。真与太郎に添乳しているおきせの寝姿の艶かしさなど、夏の夜の美女の魅惑を描いてよほどの作品ではないのだろうか。やはり同門の月岡芳年も屡々圓朝物の挿絵を描いているが、このような情艶場面はついに芳年は芳幾に及んでいない。それについて最近読み返した永井荷風先生の『江戸芸術論』にたまたま左の章を発見したから、引いてみよう。
「明治二十五年芳年は多数の門人を残して能《よ》くその終りを全うせしが、その同門なる芳幾は依然として浮世絵在来の人物画を描きしの故か名声ようやく地に墜ち遂に錦絵を廃して陋巷に窮死せり(明治三十七年七十三歳を以て没す)。然れども今日吾人の見る処芳幾は決して芳年に劣るものならず。若し芳年を團十郎に比せんか芳幾はまさに五世菊五郎なるべし(下略)」
 まことに私も同感である。謹而《つつしんで》、落合芳幾画伯の冥福を祈りたい。

    「文七元結」



 つい先ごろも六代目が上演して好評だった「文七元結」は圓朝の作ではなく、圓朝以前にもあったかりそめ[#「かりそめ」に傍点]の噺を、これだけのものにしたのであると『圓朝全集』の編者は解説している。盲目の小せん(初代)が「白銅」をはじめこうした例は落語界には少なくない故、そう見ることが至当だろう。
 圓右、圓馬、先代圓生(五代目)、現志ん生(五代目)、現馬楽(五代目)とこれだけの人たちの「文七元結」がいま私の耳にのこっているが、その巧拙良否の論《あげつら》いはここでは書くまい。相変らず圓朝、左官の長兵衛の手腕を紹介するには「二人前の仕事を致し、早くって手際がよくって、塵際《ちりぎわ》などもすっきりして、落雁肌にむらのないように塗る左官は少ないもので、戸前口をこの人が塗れば、必ず火の這入るような事はないというので、何んな職人が蔵を拵えましても、戸前口だけは長兵衛さんに頼むというほど腕は良い」と蘊蓄《うんちく》を傾けている。左官のテクニックなんか知るよしもない私たちまでこういう風に聞かされると何だかこの長兵衛という人を頼んでみたくなるようなものを覚えてくるではないか。圓朝といえども全智全能ではないから何から何まで弁《わきま》えているわけではなく、その都度しらべてかかる場合も少なくなかったのだろうが、何にしてもこの凝りようが、毎々いうごとくどんなにそこに噺の真実味というものを倍加させていることか。
 然るにそれほどの腕を持ちながら怠けもので勝負事好きの長兵衛は、きょうもすってんてん[#「すってんてん」に傍点]に取られて「十一になる女の子の袢纏を借りて着」てかえってくると、家では家で、年ごろの娘お久がどこへいったか、行方しれずとなって騒いでいるところだった。顔を見るなり女房のお兼が「深川の一の鳥居まで」探しにいったと夫に訴えるのであるが、本所の達磨横丁(いまの本所表町)に住む長兵衛の女房として「深川の一の鳥居まで」というのは、何だか大へんに遠くまで探しにいった感じがよくでている。けだし「深川の一の鳥居」という言葉の中には、たしかにある距離的な哀感すら伴っているとおもうもの、私ひとりだろうか。しかもそれを聞いてから長兵衛が「ええ、おい、お久をどうかして」とか「居ねえって……え、おい」とかにわかにオロオロ我が子の上を追い求めだすところ、まことに根は善人なる長兵衛という人の性格を浮彫りにしているとおもう。
 家出したお久は長兵衛の出入先、吉原の佐野槌《さのづち》(速記本では角海老になっている、圓馬は佐野槌で演っていた、圓朝自身も高座では佐野槌で演っていたとある。但し、先日の六代目のは角海老で、念のため五代目菊五郎伝を見たらこれも角海老となっているのは当時の脚色者榎戸賢二、速記本に拠ったものなのであろうか――)へいっている。しかも呼びにこられて長兵衛がいってみると、お久は父親の借金を見兼ね、この年の瀬の越せるよう自分の身体を売りにきたのだと分る。お内儀はその孝心に免じて百両長兵衛に貸し与え、二年間店へださない故、その間に身請においで、その「代り二年経って身請にこないとお気の毒だが店へだすよ」とこう念を押される。ところで圓朝はこのやりとり[#「やりとり」に傍点]の前にお久の嘆きの言葉をいわせているが、圓馬も先代圓生もハッキリとこの後でいわせていた(圓右のはどうだったろうか、惜しやもうおぼえていない)。ハッキリこればかりは後のほうがいいとおもう。
「手荒い事でもして、お母《かあ》が血の道を起すか癪でも起したりすると、私がいれば」いいけれど、もう私が家にいないのだから、阿父《おとっ》さん、後生だからお前、阿母《おっかあ》と仲好くして――といういじらしい訴えなのである。速記では「お前お母と交情《なか》好く何卒辛抱して稼いでおくんなさいよ、よ」と言葉をそっくりおしまいまでいってしまっているが、圓馬は「もう私がいないのだから」辺りから少しずつ言葉が曇りだしてきて、「後生だから……お前」と慄え、「阿母と仲好く……」とまでくるともうあとはそれっきりひそ[#「ひそ」に傍点]と泣きくずれてしまったので、随分ジーンと私たちまでが目頭を熱くさせられてしまったものである。尤も圓朝の速記のはよーく見ると「稼いでおくんなさいよ、よ」とおしまいの「よ」を殊更にダブらせている。そこに圓朝独自の言葉の魔術が発揚され、よひと言で圓馬の場合と全く同様の心理を描きつくしていたのかもしれない。さるにても圓馬のこの表現、「芸」の極意たる序、破、急の世にも完全なる見本みたいなものでこの手法を小説の会話の上へ採り入れることにその後私はどんなに多年苦しんだことだったろう。現に今日も私より稚《わか》い芸能人に芸道上の注意を与える場合、必ずやそれはこの序、破、急の欠陥以外にはないから妙である。そのたび必ず私はこの圓馬のお久の例を話しては心理推移の秘密を悟って貰おうとするものなのであるが、とすると同時にこの序、破、急をおぼえることは、日本画において首《はじ》めに四君子《しくんし》さえよくおぼえ込んだらのち[#「のち」に傍点]のあらゆる絵画にはその手法が織り込まれているから容易《たやす》いというのと同じで、笑う序、破、急、怒る序、破、急、くさる序、破、急等々あらゆる人生を再現する場合の序、破、急ことごとく会得できて、まずまず芸道第一課は卒業できるのじゃないだろうか。少なくとも私自身はそうと信じて信じて止まないものである。
 次に長兵衛が佐野槌から借りる百両――その百両という金額に対して、その当時の左官風情に百両はちと大業では……という疑いあるお方ありはしないか。もし、あったとしたら、それは先年私の雑誌「博浪抄」へ寄せた「家人《けにん》その他」の中の左の一章を読んでいただきたい。

 拙作「花の富籤」を発表したとき、職人風情で何十両の貸借は大業すぎると、ある批評家さんにやっつけられた。
 大業は百も承知、二百も合点である。
 あえて岡本綺堂先生の「世話狂言の嘘」に俟《ま》つ迄もなかろう、江戸時代にはお歴々の士分といえども十両以上[#「十両以上」に白丸傍点]の大金は決して肌にしてはいなかった。常に十両金さえ所持していれば、ひとたび君公の命下ったとき我が家へ戻らずして彼らは、蝦夷松前の果てまでもそのまま行かれた。即ち十両盗めば首の笠台の飛んだ所以《ゆえん》、「どうして九両三分二朱」の名洒落ある所以である。
 が、その綺堂先生も言われている(名人錦城齋典山もまた同様のことをいったそうだ)。
「あれといい、これといい、今宵に迫る二百両[#「二百両」に白丸傍点]、こりゃ如何《どう》したらよかろうぞえ」
 と、きて、はじめて、人生は芝居になる。絵になる。詩になる。すなわち現実の真でなく、芸術の上の真として、大方の胸へ囁き、ひびくものがある。いくらそれが決定的事実であるとしても、
「今宵に迫る十三両と三分[#「十三両と三分」に白丸傍点]」
ではね、と……。

 百両の金貰って長兵衛、佐野槌あとに吾妻橋へ。ここで身投げを助けるのであるが、この身投げが「身投げじゃねえか」と訊かれたとき「なに宜しゅうございます」という。くどく事情を訊ねられると、決心した上のことゆえ「お構いなく往らしって下さいまし」という。ほんとうに長兵衛との長いやりとりの間「なに宜しゅうございます」と「往らして下さいまし」とは何べんこの男の口から繰り返されることだろう。すでに死というものを覚悟し切ってしまっている姿と、みすぼらしい長兵衛の様子を見てこの人に何すがれるものかという軽蔑の心持とがまざまざそこから感じとられて、巧緻である。また長兵衛自身にしても場合が場合、助けたいのは山々であるが、さりとて他ならぬ金、遣わないですめばそれに越したことはないので、
「己もなくっちゃならねえ金だが、これをお前に……だが、何うか死なねえようにしてくんな、え、おう」
 とこういいもするのである。このいい方もまたなかなか心理的でいいとおもう。最近谷崎潤一郎氏は「きのうきょう」の中で里見|※[#「弓+享」、第3水準1−84−22]《とん》氏の会話の妙をたたえて、「小説界の圓朝」といわれているが圓朝の巧さはまことこうしたところに尽きているとおもう。では「死なないように致しますから、お構いなく往らしって下さいまし」といい、安心して長兵衛が行こうとすると「また飛び込もうとする」、それを留めて戒め、また行こうとすると、また飛び込もうとする、こ
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