を求めて朝太郎の悲劇は展開されてくるのであるが、そういえば大利根へ入水する悲しき明眸またお里である。さらに倉岡元庵の忰元仲をしておよそ世にあるまじき鬼畜としているところなど、かくて私の作家的貪慾さはむしろこの物語の背後のほうへいよいよ旺盛な空想を走らせないわけにはゆかない。
「怪談乳房榎」
明治二十一年出版とされている「怪談乳房榎」のほんとうの製作年代は詳《つまびらか》にされていないが、前二作より遅れていることは明らかだろう。
まずまくら[#「まくら」に傍点]に主人公菱川重信の画風を以てして、
「土佐狩野はいうに及ばず、応挙、光琳の風をよく呑み込んで、ちょっと浮世絵のほうでは又平から師宣、宮川長春などという所を見破って、其へ一蝶《いっちょう》の艶のある所をよく味わって」
と、国芳門下に彩管を弄《もてあそ》んだありし日が立派にここでこう物をいっているのである。圓朝は骨董にもよく目が利いたと圓朝の名跡を預かっていられる藤浦富太郎氏はかつて私に語られたことあったが、改めていまここで引用はしないが「菊模様皿山奇談」のまくらにおいてもいかにも美しそうなふくよかな艶ある陶器について一席弁じている。そうした教養の展開がまたいかに本文の事件に真実性をクッキリと色添えてはいることよ。
この菱川重信の妻おきせの美貌に懸想し、望みを協《かな》えてくれねば重信の一子を殺害するとていい寄った浪人磯貝浪江は思いを遂げてのち正直の下僕正介を脅かして手引きをさせ、ついに落合の蛍狩の夜重信をも暗殺してしまった。然るのち、遺子《わすれがたみ》の真与太郎をも殺害せんとするので前非を悔いた正介はこの子を連れて出奔し、のち乳房榎の前において五歳の真与太郎が立派に親の仇を討ち果す。これより先おきせは乳房の中に雀が巣喰うとて懊悩狂乱、悶死してしまうという物語である。
ではその磯貝浪江の姦悪は、いついかなる機会から最初に働きかけられているか。高田砂利場南蔵院の天井、襖へ嘱されて重信、絵を描きにいくことになるが、葛飾に住む重信の高田の果てまで日々かよっていくことは到底できない、正介伴うて南蔵院へ長逗留する、すなわちその留守をつけ込むのである。
これに先立ち小石川原町の酒屋万屋新兵衛に伴われ高田村の百姓茂左衛門は絵の依頼にやってくるのであるが、その茂左衛門、重信をつかまえて、「先生様(中略)桜が一面に咲いて居る所へ虎が威勢よく飛んで居る所を、彩色でこう立派に描いて下せえな」というのが大へん可笑しい。桜に虎などはいかにも田舎者らしくわけ[#「わけ」に傍点]が分らなくて、ギャグとしてもまた斬新である。しかもこのギャグで茂左衛門の人柄をよろしく見せておき、のち[#「のち」に傍点]に寺でこの男がつきっ切りでへんな画題ばかり註文するゆえ、彩色は後廻しにてまず天井の墨絵の龍から描く、それが素晴らしい怪談を生むに至るとこういう段取りになるのだから、効果は一石三鳥といっていい。毎時ながら圓朝の用意のほどに降参してしまわないわけにはゆかない。このお客へ重信が「只今何か……冷麦を然う申し付けたと申すから、まあよい……では、一寸泡盛でも……」というのも冷麦、泡盛といかにも夏らしい対照《とりあわせ》でいい。かつて神田伯龍は「吉原百人斬」の吉原|田甫《たんぼ》、宝生栄之丞住居において栄之丞をして、盛夏、訪れてきた幇間阿波太夫に青桃と冷やし焼酎を与えしめた。これまた、真夏の食べものとしては絶妙と、私は頗《すこぶ》る感嘆これを久しゅうしたことがあったが、すべてこうしたほんのちょっとした小道具のひとつひとつの用意にかえってクッキリと全体の詩情がかもしだされること少なくないことを、我々はようくおぼえておかねばならない。
おきせにいい寄る磯貝浪江の術策はまず虚病をつかって玄関へ打ち倒れるのであるが、それを葛飾住居の烈しい蚊のためまさかにその辺へ寝かしもおけず、奥へ蚊帳吊って憩《やす》ませる、これがずるずるその晩泊り込んでしまう手だてとはなるのである。かつて私も葛飾住居の経験があるけれど本所に蚊がなくなれば大晦日――あの辺り今日といえども四月から十一月まで蚊帳の縁は離れない。宇野信夫君の『巷談宵宮雨』では深川はずれの虎鰒《とらふぐ》の多十住居で、蚊の烈しさに六代目の破戒坊主が手足をことごとく浴衣で覆ってしまう好演技を示した、つまりそれほどの蚊なのであるから、それを浪江とおきせの人生の一大変化へ応用せしめた腕前はまことに自然で賞めてよかろう。それからおきせにいい寄るくだりでも始めはおきせを斬るという、が、愕《おどろ》かない、そこで、では面目ないから手前が切腹するという、やはりどうぞ御勝手にと愕かない、最後に、ではこの真与太郎殿を殺すといわれ、初めておきせは顔面蒼白してしまう。さてそこまで持ってきておいて、「皆様に御相談でござりますが、可愛い我が子を刺し殺そうとされました心持はどんなでござりましょうか、女というものは男と違いまして、気の優しいもので、こういう時にはいう事を聞きましょうか、それとも聞きませんものでしょうか、おきせの返事は明日申し上げましょう」云々。これでおきせの罪に至るの経路もまともに聞きまこと同情に値するものであることがよくよく聴衆に肯かれるし、心から圓朝またこの弱いおんなへ温かい涙をふりそそいでやっているではないか。しかもそうしておいて、「おきせの返事は明日」とヒョイと肩を透かしてスーッと高座を下りていってしまったのである。しばし寄席、ドーッと感嘆と興奮のどよめき[#「どよめき」に傍点]が湧き起って、鳴りも止まなかったろう光景が察するに難しくない。絶技である、まことに。
いよいよ悪計を胸に高田南蔵院を訪れる磯貝浪江には、「天地金の平骨の扇へ何か画が書いてある」ものを圓朝使わせている。この扇ひとつでも何かその人らしい色悪《いろあく》らしい姿が浮かび上がってくるから妙である。さらに「先生は下戸でいらっしゃるから、金玉糖を詰めて腐らん様に致して」持ってきた浪江である。金玉糖で季節を、またそれを好む重信の人となりを、併せて重信をしていよいよ磯貝を信用しないではおかないような口吻を――またしてもまた圓朝は一石三鳥の実をものの見事に挙げている。ことに「詰めて腐らん様に」とは何たる誠意ある言葉だろう。重信ならでも容易に信頼したくなるではないか、これは。
だからこそ浪江にいわれ、すぐに正介をいっしょにそこまでだしてもやるのである。すると牛込馬場下の小料理屋へ連れてきて浪江はふんだん[#「ふんだん」に傍点]に正介に飲ませる。揚句に人のいい正介へ言葉巧みに伯父甥になろうと持ちかけ、有無をいわさずその誓約をさせてしまう。余談に入るが、そのころの牛込馬場下はのて[#「のて」に傍点]の片田舎としてはかなり繁華な一部落であったらしい。かの堀部安兵衛武庸も八丁堀の浪宅から高田馬場へ駈け付けの途次、この馬場下の何とやらいう酒屋で兜酒を極めたとて震災前までその桝がのこっていたし、もちろん、これは大眉唾としても、少なくともこの安兵衛の講釈が創作された時代の馬場下に兜酒極められる家が存在していたのであることだけはハッキリといえよう。夏目漱石の『硝子戸の中』によれば漱石の幼年時代、貧弱極まるものではあったらしいが、この馬場下には講釈場のあったことすら描かれている。もって、知られよ。
浪江、伯父甥の誓約をさせると、早速に重信殺しの手助けをせよと切りだす。そうして聞き入れなければ一刀両断だと猛り立つ。いのちには換えられず、いやいや[#「いやいや」に傍点]正介承諾するが、さてこのあと南蔵院へ戻り、黄昏、落合の蛍見物へ連れだすまでしじゅう正介が口の中で念仏を唱えたり、いうことがしどろもどろになったりするところ、いかにも正介というものの性情あらわれていていい。例えば蛍見物にいっていて重信から酒を飲めとすすめられ「貴方もう[#「もう」に傍点]たくさん上れ、もう上り仕舞だから」といったり、九年の間「やれこれいって下すった事を考えると、私い涙が零《こぼ》れてなんねえ」といったり、またしても「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」といいだしたりする類いに、である。
トド重信は殺される。かねての手筈通り、正介は南蔵院まで駈け戻って、いま先生が狼藉者と斬り合っているとこう伝える。と意外にも寺僧たちは一笑にふしてしまって、つとに先生はかえって本堂においでですという。ギョッとした正介がこわごわ所化《しょけ》の後から従いていき、本堂を覗いてみると、紛れもなく重信はいま落款を書きおわり、「筆を傍へ置き、印をうんと力を入れて押した様子」しかも「正介、何を覗く」とこう叱るのである。思わずアッと正介が倒れると、とたんにかんかん点いていた蝋燭の灯がサーッと消え、この物音に驚いて寺僧たちが駈けつけたとき、はや重信の姿はそこにない。
「昨日まで書き残して出来ずにおった雌龍の右の手が見事に書き上がって、然も落款まで据わって、まだまだ生々と致して印の朱肉も乾かず龍の画も隈取の墨が手につくように濡れて居りますのは、正しく今書いたのに違いありません」
――なんとこのスリルは鮮やかではないか。しかも殺されたばかりの重信がのこりの絵を仕上げにかえってきているところいかにも芸道の士の幽魂らしく、さらにその落款の「朱肉も乾かず」というへんな生々とした実感さ。私はここを圓朝全怪談中の圧巻だとさえおもうのである(ことにこの場面は速記で読んでもぞくぞくと迫ってくる肌寒さがある)。
さて私は「乳房榎」もここまで――いやことに馬場下の小料理屋から、蛍狩の殺し、そうしてこの怪奇までが最高潮であり、芸術的香気もまたすこぶる高いと確信している。もちろんこの後、仇討までの何席かも決して「江島屋」のごとき作意はなく、ことに再び正介が浪江から真与太郎を十二社の滝壺へ投げ込んでこいと脅かされて泣っ面で邸を飛び出し、山の手へかかるとだんだんはつ秋の日が暮れかかる。折柄、賑やかな新宿の騒ぎ唄をよそに頑是《がんぜ》ない子を抱きしめてこの正直一途の爺やがホロリホロリと涙しながら角筈さして、進まぬ足を引き摺っていく辺りは、無韻の詩である。断腸の絵であるともまたいえよう。
しかも十二社の滝で重信の霊から叱られるくだりは、これまた「牡丹燈籠」のカランコロンのくだりと同じで速記では全然怪奇のほどが分らない。むしろ空々しささえ感じられて今日圓朝あらば正介の夢枕に立たせるとか何とかもう少し現実的な手法を採らせたろうとさえおもわれるほどであるが、しかしこれは前掲「牡丹燈籠」の場合の綺堂先生の随筆を考えるとき、あるいは随分このままで圓朝の舌をとおして聴かされるときは物凄かったものかとおもい直される。なら、にわかにいま軽々とその良否を論ずべきではなかろう。
重信の霊に叱られ、真与太郎様育てて先生の仇をと前非後悔、健気にも決意した正介がその晩泊った新宿の宿で、夜半乳を求めて泣く真与太郎に、正介当惑していると、泊りあわせのお神さんが乳を恵んでくれる。おかげで真与太郎はすぐ安々と眠ってしまうが、翌朝、重信に南蔵院へ絵を描きにきてと頼みにきた原町の酒屋万屋新兵衛と宿の廊下でパッタリ出会い、いろいろ話し合ってみるといずくんぞしらん昨夜乳を恵んでくれたはこの新兵衛のお神さんであったとは――。ここらの偶然さは少しも不自然でなく、むしろ重信の霊に叱られた直後のこの奇遇だけに、真与太郎のためはや[#「はや」に傍点]この亡魂の加護あるかと、慄然とさえさせられるのである。
話は前後するが磯貝浪江が重信の家へ入夫しようとするくだりで、何にもしらないで浪江にたのまれ、おきせに再縁をすすめにくる地紙売の竹六が、磯貝様はどうだと訊くと「まさかあのお人を」とおきせが否定するのでオヤこの分なら脈があるなと心でおもう言葉も巧い。ほんのこれだけの会話の中にじつにいろいろさまざまの複雑な意味を持たせている圓朝に、よほど私たちは学ばなければならないとおもう。
一方故郷の武州赤塚村へ立ち戻った正介は、細々と真与太郎育ててい
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