よ高座にあらわれて、燭台の前でその怪談を話し始めると、私はだんだんに一種の妖気を感じてきた。満場の聴衆はみな息を嚥《の》んで聴きすましている。伴蔵とその女房の対話が進行するに随って、私の頸のあたりは何だか冷たくなってきた。周囲に大勢の聴衆がぎっしりと詰めかけているにも拘らず、私はこの話の舞台となっている根津のあたりの暗い小さな古家のなかに坐って、自分ひとりで怪談を聴かされているように思われて、ときどきに左右に見返った。今日と違って、その頃の寄席はランプの灯が暗い。高座の蝋燭の火も薄暗い。外には雨の音が聞こえる。それ等のことも怪談気分を作るべく恰好の条件となっていたには相違ないが、いずれにしても私がこの怪談におびやかされたのは事実で、席の刎ねたのは十時頃、雨はまだ降りしきっている。私は暗い夜道を逃げるように帰った。
この時に、私は圓朝の話術の妙ということをつくづく覚った。速記本で読まされては、それほどに凄くも怖しくも感じられない怪談が、高座に持ち出されて圓朝の口に上ると、人を悸《おび》えさせるような凄味を帯びてくるのは、じつに偉いものだと感服した。時は欧化主義の全盛時代でいわゆる文明開化の風が盛んに吹き捲っている。学校に通う生徒などは、もちろん怪談のたぐいを信じないように教育されている。その時代にこの怪談を売物にして、東京中の人気をほとんど独占していたのは、怖い物見たさ聴きたさが人間の本能であるとはいえ、確かに圓朝の技倆に因るものであると、今でも私は信じている。
「鏡ヶ池操松影」(江島屋騒動)
「牡丹燈籠に次いで有名な怪談であります」と『圓朝全集』の編者鈴木行三氏は解説で述べておられる。
私はこの作が「牡丹燈籠」や「菊模様皿山奇談」に次ぐ初期の作であるため、ここに論《あげつら》うことにしたのであるが、いま久々に読み返してみて花嫁入水前後のくだり、江島屋の番頭金兵衛が呪いの老婆にめぐりあうくだり、この二席のほかは圓朝物としてはおよそ不傑作であり、大愚作であることを熟知した。しかもこの二席ある故にかりにも「牡丹燈籠に次いで」云々といわるるものあることをもまた思い知った。宜《ひべ》[#ルビの「ひべ」はママ]なる哉、近年の圓右(二代目)にしても、下って先代圓歌(初代)にしても決してこの二席以外のところは喋らなかったことによっても分ろう。
まず傑《すぐ》れたる二席についてのみ、最初に語ろう。下総国大貫村にお里という美しい娘があり、それを名主の息子が見染めて嫁に迎えることとなる。名主は仕度金五十両を与えるのでお里は母と江戸へ上って芝日蔭町の江島屋という古着屋で(婚礼の日が迫っているので仕立てていては到底間に合わなかった)「赤地に松竹梅の縫のある振袖、白の掛帯から、平常のちょくちょく着まで」四十二両という買物をしてかえる。ところがこの婚礼衣裳が糊で貼り付けたまやかし[#「まやかし」に傍点]ものだったので、馬へ乗って先方へ輿入れの途中、大雨に濡れた。ために満座の中で「帯際から下がずたずたに切れ」た。「湯巻《ゆもじ》を新しく買うのを忘れたとみえ、十四、五の折、一度か二度締めた縮緬の土器《かわらけ》色になった短い湯巻が顕われ」た。面目玉を潰した名主は五十両の仕度金をやったにお前たちは五両か十両のものを買ってきたのだろうとカンカンになってお里母子を村内から追放する。カッと取り逆上《のぼせ》たお里は大利根へ身を投げて死んでしまう。
これがその一席――。
その年の冬、江島屋の番頭金兵衛が下総へ商用できて吹雪に道を失い、泊りを求めた茅《あば》ら家で夜半あやしき煙りが立つから破れ障子から奥の間を覗いて見ると、瘠せ衰えた老婆が「片膝を立てまして、骨と皮ばかりな手を捲り上げて、縫模様の着物をピリピリと引き裂いて囲炉裏の中へくべ、竹の火箸で灰の中へ何か文字のようなものを書いては、力を入れてウウンと突」く。さらにまた「縫模様をピリピリと破いてポカリッと火の中へ入れて、呼吸《いき》遣い荒く、ああと言って柱のほうへ往くと、柱に何か貼り付けてあって、釘が打ってある、それを石でコツーンと力に任せて打ちひょろひょろと転げてはまた起ち上って打つ事は幾度か知れません、打ち付けて、終《しまい》に石を投げ附けて、ひょろひょろと元の処へ戻ってきて、また火の中へ何かくべて居るその様子は実に身の毛もよ立つ程怖い」
いう迄もないこれがお里の母の成れの果てで、江島屋があのようなものを売ったばかりに、可愛い娘を殺してしまった。おのれ、江島屋め、人に怨みがあるものかないものかと、怨みの嫁入り衣裳を火中に、かくはいのちを賭けて呪っているのである。選りに選ってそのようなところへ泊り合わせた金兵衛は真っ青になって、その娘さんの回向料にと持ち合わせの金子《きんす》を与えると、夜明けを待ち兼ねてそこそこに逃げだしてしまう。「這々《ほうほう》の体で江戸へ立ち帰り、芝日蔭町の主家江島屋治右衛門方へ帰って参りますと、店先へ簾を垂れ、忌中と記してありますから、心の中にお出でたなと怖々ながら内へ這入り、様子を聞くと家内が急病で亡くなり、お通夜の晩に見世の小僧が穴蔵へ落ちて即死」
再び金兵衛ゾクゾクと慄えて「ああこの家も長いことはあるまい」と長嘆息する。
これがその二席――。
まことに戦慄《スリル》のほども新鮮そのものの怪談である。
糊貼りの婚礼衣裳が大雨に濡れて剥がれる発端も斬新なら、その衣裳を火中する老婆の姿もまことに無気味、さらに飛ぶようにかえってきた主家の表に忌中簾の下りている物凄さ――とまことに三拍子揃った構想の妙に、ただただ私は感嘆せずにはいられない。主家の忌中簾を見る一節など「新しすぎて凄い売家」とある「武玉川」の一句をおもいださずにはいられない。それには部分部分の描写会話もなかなかに秀でていて、老婆のくだりは前述したごとくであるが、お里の嫁入り馬の扮《こし》らえにしても、「馬《うま》へ乗って行くんだが、名主なら布団七|枚《めえ》も重ねる所だが、マア三枚にして置いて、赤《あけ》えのと、青えのと、それから萌黄のと、三枚布団で、化粧鞍を掛け、嫁子《よめっこ》さんを上へ結附《いいつ》けて行くんだよ」と村内の世話焼をしていわしめている。いかにも田舎田舎した婚礼馬の盛装が目に見えるようではないか。しかも「柔和《おとな》しい馬を村中探したが無《ね》えから」と、探すに事を欠いて「漸《ようや》っと小松川から盲目馬を一匹牽いてきやした」というのである。歓びたちまち凶と変じて、数時間後には大利根の藻屑となる薄幸の花嫁の運命を象徴すべく、盲目馬とは何たる憎い配合だろう。私の圓朝に脱帽せずにいられなくなるのは主としてこうしたところにあるのである。
またひとつ、家では老婆をして金兵衛に「何も御馳走は有りませんが唐土餅《からもち》と座頭|不知《しらず》という餅がありますから」と愛想をいわせている。いずれ『日本の菓子』の著者山崎斌君にでも質してみよう、寡聞にして私はこの二つの菓子の名を全く初耳なのであるが、唐土餅とか、ことに座頭不知などいかにも野中の一軒家でだされる餅菓子らしいではないか。こうした小道具の妙もまた、私の推賞して止まないところの圓朝のよさがある。
が、これからあとの江島屋一家の運命は例の傀儡《かいらい》的な因縁また因縁で甚だ妙でない。「牡丹燈籠」や「累ヶ淵」(前半)の因縁は因縁なりにまずまず自然さがあるけれど、「江島屋」の場合は因縁のための因縁といったようなところがあって少しも実感なくおもしろくない。すべてお里母子の死霊の祟りの糸によって江島屋治右衛門は女狂いをはじめる、善良な夫婦養子は追い出され、しかも夫は紙屑買いに、妻は吉原松葉屋の小松という花魁とまでなり果ててしまう、これへ絡むにお里の義理ある兄倉岡元仲が江島屋養子安次郎の父や、小松の母の殺害事件があり、トド浅草石浜の鏡ヶ池で仇元仲を仕止めるという終末なのであるが、倉岡元仲という悪人の性格にも人間味なく所謂《いわゆる》ひとところの新派大悲劇的悪人という奴で少しも同感が強いられない。相棒の伴野林蔵も「英国孝子伝」の井生森又作という役どころであるが、又作ほど活々と描けていない。それには冒頭、小僧時代の安次郎が元仲に六十両捲き上げられたとき、それを救ってやるのは江島屋番頭金兵衛である。そのころまだ安次郎は横山町の島伝という糶呉服屋に勤めていたのであるが、その主人至っての強慾で詫びに連れていってくれた金兵衛がどう陳じても盗られた六十両を返せといって肯じない。乗りかかった船で侠気の金兵衛が主家の払いの金六十両を島伝に与え、無理から安次郎を江島屋へ連れ戻ってきて奉公人としてやるのである。
もちろんこのような男ゆえ金兵衛には末始終なんの祟りもなく末安楽となるのではあるが、それにしてもいくら金兵衛が善人でも主人治右衛門がそうでなかったら、そのとき六十金を支払って易々と安次郎をかかえはしまい。また主人が嫌がるのを説き付けるだけの勢力ある金兵衛なら、この血も涙もある男の、到底糊貼り衣裳なんかは売りはしまい。立派な暖簾の手前にかけてもそんなまやかし[#「まやかし」に傍点]を売ることなど、させなかったはずである。これは圓朝にも似合わない不用意であり、失敗とおもう。むしろ強慾島伝のほうを古着屋にしてそこから悲劇を発生せしめ、死霊をして祟りに祟らせてやりたかった(だのに島伝は始めだけで全然終末まで顔をださない)。
また一家の祟りに端を発して養子夫婦が逐いだされたり、殺人があったり、仇討ちがあったりという風に所謂お家騒動に仕立てられているが、かりに島伝へ祟るとしてももっとその一家の一人一人へ祟っていく凄惨さを中心に掘り下げていったなら、よほどおもしろくはなりはしなかっただろうか。つまり私は作者自らも謂っているところの「江島屋騒動[#「騒動」に白丸傍点]」でなく、あくまで「江島屋怪談[#「怪談」に白丸傍点]」でありたかった。つまり圓朝のアッシャ家の没落といきたかったのだ。全篇のほとんど大半をそういう怪奇と戦慄で仕立てていって、尚かつとどのつまりを善因善果の解決にまで持っていって持っていけないことはゆめなかったろうと信じている。
何れにしてもこれは圓朝稀に見る不傑作であると同時に、しかもよく今日まで名声を克ち得ているのは、あえて再びいうが花嫁入水、老婆呪詛のあまりにも卓抜であり過ぎたためである。全くこの二席の空高く浮く昼月の美しさに比べ見て、なんと他のことごとくの闇汁のゴッタ[#「ゴッタ」に傍点]煮の鵺《ぬえ》料理の、ただいたずらに持って廻り、捏ねっ返して、下らなくでき過ぎていることよ。
でもその持って廻っている十何席の間にも幾度かその場はその場としてなりの技巧の妙、会話の味、描写の冴えを見せているところ十指にあまるくらいであることはいう迄もない、いちいちの引例は略させて貰うが。
おしまいに気のついたこと特に二つ書く。元仲と林蔵の会話にじつに屡々「君」「僕」がつかわれている。「牡丹燈籠」の新三郎、萩原間にもまた「君」「僕」がある。ほんとうに江戸の日の医者とか(元仲も志丈も医者あるいは医者くずれである)通人とかそうした人たちの用語にはこの「君」「僕」の用語があったのだろうか。それとも、時、文明開化の真っ只中、私たちが意識して自作の中で古風のいい方を時にやや現代風に変えるときがあるように、圓朝もまた心得ていてこの文明開化語を起用したのだろうか。大方の示教を得たい。
もうひとつ倉岡元仲の父を倉岡元庵と名乗らせていることであるが、『圓朝全集』第十三巻の鈴木行三(古鶴)氏が『圓朝遺聞』を見よ、「妻子の事」の章に、
「圓朝は(中略)不図した事から御徒町の倉岡元庵というお同朋の娘お里との間に一子を挙ぐるような間柄になった」
云々とある。
このお里との間へできた「一子」が、のち[#「のち」に傍点]陋巷《ろうこう》に窮死した朝太郎で、私の『慈母観音』という小説にはその若き日の姿が採り上げられている。お里は圓朝と別れて失意落魄の境涯に入り、その母
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