動いろいろの点から是が非でももうひと晩もうひとつ晩と意味なく飴のごとくに物語を延びさせてしまったものではなかろうか。現に故伊藤痴遊氏のごとき荒木又右衛門をして伊賀の上野に三十六番斬を演ぜしめたは、当の又右衛門ならずして神田一山なりとされている。つまり一山、まず一人だけ斬ってお後明晩としたところ、翌晩、倍のお客がきた、でまた一人斬ってまた明晩、また一人また明晩、また一人また明晩、ついに三十六人目にようやくめざす河合又五郎を斬って棄てめでたく仇討本懐を遂げるとともにようやく日延べつづきの興行の千秋楽を迎えるに至ったというのである。でも一山の場合は毎晩一人ずつ斬る、その一人ずつの斬り方がことごとくちがっていたため、いっそう大好評だったといわれるから素晴らしい。
その点怪談のまくらにおいて見事後代の典山に勝った圓朝は、無理から噺を引き延ばす技巧においては同時代(だろうとおもう)の一山に敗れたりといわねばなるまい。さりながら冒頭にもすでに述べたが大正末年から大東亜戦争寸前まであまりにも企業化してしまった我が文学界においても、屡々すでに結末に近付いている大衆小説を、あるいは好評なるがため、あるい
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