と斬り口へ触ったから、ワーッと戸を蹴返して二人は表へ逃げだしてしまう。騒ぎに目をさました長屋の人たちが一人一人、戸のはずれている真っ暗がりの家の中へ入っていって籠の中へ手を突っ込んでは「フワッ、お長屋の衆」と悲鳴を上げる。また次のが入っては「フワッ、お長屋の」を繰り返す。何といってもここは故人圓右の独擅場で、無気味な中にもこみ上げてくる何ともいえないその可笑しさ。そうそうそういえばおもいだす雪ふるその朝、葛籠の棄ててある自身番の前ちかく、しきりに歯を磨いている若者が通りかかった友だちから近所の根津のことだろう、「大分お前このごろ繰り込んでもてるてえじゃねえか」とからかわれ、「ナ何、……そ、それほどじゃねえや」と脂《やに》下がりながらまた楊枝をモグモグさせてしまう塩梅、無類だった(圓朝全集のにはこの仕出し登場していない。圓右独自の演出だろうか)。それにはその時分、この「フワッお長屋の衆」という悲鳴を聞くたんび、私はありし日の江戸下町の生活をおもってひと長屋睦み合っている納まる御代の楽し艸《ぐさ》をいかばかり羨ましくおもい返したことだったろう。そののち私は大阪島の内、または新屋敷あたりの街
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