取次がありますぜ、奥方、取次がありますよ」と新左衛門自らいい、「どうれ」とやがて奥様がでてくる。まず以て貧寒の旗本屋敷がアリアリと目に見えてくる。つづいて上へ上がった宗悦が「何か足に引掛」ったというと、奥方が「なにね畳がズタズタになってるから」ますます寒々とした邸内の有様が髣髴としてくる。しかもその最中に殿様は酒浸りになっている。そして宗悦にも飲ましてやりたいとて、「エエナニ何か一寸、少しは有ろう[#「少しは有ろう」に白丸傍点]」と奥方にこう呼びかける。「少しは」はこの場合、特に寒い。それには強《したた》かに酔っていながらも新左衛門、相手の督促にきたことは百も承知のそれが気になって気になってたまらないものだから「宗悦よくきた、さァひとつ」「まァ宗悦よくきたな」とふた言目にはこういっている。いかにもこうした場合にこうした人のこうしかいえない言葉でいて、さてイザ書こうとするとき、なかなか書けないところの言葉である。
 宗悦が返金を切りだす、もう少し待てと殿様が断る、そのときひと膝乗り出した宗悦が「私はこういう不自由な身体で根津から小日向まで、杖を引っ張って山坂を越してくる[#「山坂を越して
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