は某々紙上において自らの落語速記を、他の誰のであったか、全く別箇の落語と半分ずつ接ぎ合わせたまやかし物を自演として発表され、大腐りに腐っていたことを。芸術の冒涜もまた、ここに至れば極まれりというべしである。落語家社会においてかりに前半に「天災」を語り、後半たちまち「廿四孝」に映ることありとせば「掴み込み」と蔑称し、そは田舎廻りのドサ真打の仕草と嘲り嗤われてやまざるところのもの。往年の可楽君の悒鬱《ゆううつ》、今に至るも察してあまりあるものである。あるいは全くその演者の演ぜざる物語にいい加減の名前を附し、発表されることも少なくなかった。例えば現文楽(八代目)が「和洋語」を演じ、現小さん(四代目)が「五人廻し」を演じている速記のごときである。
ここ数年来、講談社の諸雑誌など、頓《とみ》に講談落語の速記を尊重しだし、親しく自宅へ速記者を派遣せしめ、また演者自らの執筆のかかるものを選びて掲載するなどの傾向を生じてきたのは喜びに堪えない。到底、往年の無用の用ある風雅味などは見るべくもないが、まだしもこれは実際の口演だけに取柄ありとしよう。ジャーナリズムはようやくにして話術の面白味の何たるかを悟
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