が今日のような出鱈目至極のものとなり果ててしまったのは。
 私の記憶にして誤りなくんば癸亥大震災後、ようやくに文学というもの企業化し、全くのジャーナリズム王国築かれて操觚《そうこ》世界へ君臨するようになって以来のこととおもう。そのころ発兌《はつだ》の娯楽雑誌関係者は故石橋思案、森暁紅諸家のごとく、常盤木《ときわぎ》倶楽部落語研究会の青竹めぐらした柵の中から生れきた通人粋子に非ずして、大半はこうした世界の教養を持たない地方出身の人々だったから、落語家講談師の一人一人のデリケイトな話風に立ち至ってまで知るよしがない。また相手として呼びかくる読者の大半、これまた地方大衆人に過ぎなかったから、いかに如実に演者の口吻を写しだしているか。そうした速記者の腐心など採り上げて買ってくれるよしもなかった。むしろ彼らはそうした風趣をば無用の夾雑物《きょうざつぶつ》と非し、ひたすら、物語本位、筋本位の安価低俗の構成を要求したのだろう。明治開化以来の愛読に価する講談落語の本格速記の伝統は、このときにして崩壊しつくしたりというも全く過言でない。
 現に私は記憶している、昭和八、九年のころ現三笑亭可楽君(八代目)
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