いられなかった。元よりこうした場合は異例ではあるが、話風の活写には間然たるところありとしても、多かれ少なかれ何か昔の速記にはこうしたありのままの浮世はなれた風情がある。また演者の生活や好みの一断片がチラと不用意に覗かれる、夏の夕風にひるがえった青簾の中の浴衣姿の佳人のごとく。そこを何より買いたいのである。
 こうした速記のとぼけたよさ――それのなくなりだしたのはいつからだろう。「講談雑誌」第一号から第十号までを私は愛蔵しているが、まだまだ大正四年ころのこれらの速記はいま読むと故馬生(六代目・先代志ん生)、故小せん(初代)、故小勝(五代目)、先々代つばめ(二代目)、現左楽(五代目)など、その高座を識るものにはたしかにその人と肯かれる話癖が浮彫りになっていて微笑ましい。ただし、何年何月何日誰某宅にて速記などと断り書きのしてあるのは真っ赤な偽りであると、日頃、今村信雄君から教えられ、とんだ罪の深い真似をしたものだねと、うっかり笑ってしまったけれど、よくよく考えてみればそうまでしてまで真実感をかもしだそうとした当時の速記者たちの努力は買ってやるべきだろうとおもうが如何。
 いつからだろう、それ
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