ョッとした正介がこわごわ所化《しょけ》の後から従いていき、本堂を覗いてみると、紛れもなく重信はいま落款を書きおわり、「筆を傍へ置き、印をうんと力を入れて押した様子」しかも「正介、何を覗く」とこう叱るのである。思わずアッと正介が倒れると、とたんにかんかん点いていた蝋燭の灯がサーッと消え、この物音に驚いて寺僧たちが駈けつけたとき、はや重信の姿はそこにない。
「昨日まで書き残して出来ずにおった雌龍の右の手が見事に書き上がって、然も落款まで据わって、まだまだ生々と致して印の朱肉も乾かず龍の画も隈取の墨が手につくように濡れて居りますのは、正しく今書いたのに違いありません」
――なんとこのスリルは鮮やかではないか。しかも殺されたばかりの重信がのこりの絵を仕上げにかえってきているところいかにも芸道の士の幽魂らしく、さらにその落款の「朱肉も乾かず」というへんな生々とした実感さ。私はここを圓朝全怪談中の圧巻だとさえおもうのである(ことにこの場面は速記で読んでもぞくぞくと迫ってくる肌寒さがある)。
さて私は「乳房榎」もここまで――いやことに馬場下の小料理屋から、蛍狩の殺し、そうしてこの怪奇までが最高潮
前へ
次へ
全82ページ中48ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
正岡 容 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング