ちの引例は略させて貰うが。
 おしまいに気のついたこと特に二つ書く。元仲と林蔵の会話にじつに屡々「君」「僕」がつかわれている。「牡丹燈籠」の新三郎、萩原間にもまた「君」「僕」がある。ほんとうに江戸の日の医者とか(元仲も志丈も医者あるいは医者くずれである)通人とかそうした人たちの用語にはこの「君」「僕」の用語があったのだろうか。それとも、時、文明開化の真っ只中、私たちが意識して自作の中で古風のいい方を時にやや現代風に変えるときがあるように、圓朝もまた心得ていてこの文明開化語を起用したのだろうか。大方の示教を得たい。
 もうひとつ倉岡元仲の父を倉岡元庵と名乗らせていることであるが、『圓朝全集』第十三巻の鈴木行三(古鶴)氏が『圓朝遺聞』を見よ、「妻子の事」の章に、
「圓朝は(中略)不図した事から御徒町の倉岡元庵というお同朋の娘お里との間に一子を挙ぐるような間柄になった」
 云々とある。
 このお里との間へできた「一子」が、のち[#「のち」に傍点]陋巷《ろうこう》に窮死した朝太郎で、私の『慈母観音』という小説にはその若き日の姿が採り上げられている。お里は圓朝と別れて失意落魄の境涯に入り、その母
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