所で、この方は雪ではないが、岡本綺堂先生の『半七捕物帳』の「鷹のゆくへ」の中の雑司ヶ谷の落葉枯葉にふる時雨は、
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「村はづれまで来かかると、時雨がたうとうざつと降つて来たので、半七は手拭をかぶりながら早足に急いで来ると……」
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とあり、そこで雨宿りに飛込んだ蕎麦屋で半七がいろいろの手がかりを掴んで表へ出ると、
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「時雨雲はもう通り過ぎてしまつたらしく、初冬の弱い日のひかりが路傍の藁屋根をうす明るく照して来た」
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とこんな風に、サラツと降つてカラツとあがる、いかにも思ひきりのいい江戸のしぐれのふらせ方をしてゐられる。此が北国のしぐれだつたらとてもこんな安直な塩梅式にはゆかないだらう。雪としぐれとはちがふけれど、くどくも云ふとほり所詮が東京の大雪は、どんな大雪でもこのしぐれとおなじ宵越の銭を持たない大雪である。
とは云ふものの、同じ泉先生の「三味線堀」には明治末年から大正初年へかけての佐竹一帯の幽暗な街の姿が実によくえがき出されてゐる。馬場孤蝶翁もかいてゐられたがほんとに私たちの子供のじ
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