たあの糸蚯蚓まで金魚売の持つて来るものは、みんな市井の路次々々の人たちのやう、親しみ易い。「目高アア、金魚イ」売声のまくらで落語家がよくやるハタと人足絶えた旧東京の日盛りの街々をおもはせてなつかしい。
子供の時分、本郷の菊阪にはギイと木戸を開け、石段を下りて行くと、「天野八郎」の召捕りへでさうな金魚屋があつた。いくつにも仕切つた四角い池へは、じつにいろ/\さま/″\の金魚が眉目《みめ》美しく放たれてゐた。さうしてそのとき真夏の午後の白銀《しろがね》の日は、怖しいほど、たゞしんしんと池全体へふりそゝいでゐるのだつた。[#地から1字上げ](昭和十七年夏)
東京の声
同じ題で木村荘八画伯が、たしか大正十四年秋、都新聞へ書かれたことがある。
それは「太神楽《だいかぐら》」を「タイカグラ[#「タイカグラ」に傍点]」だの「寄席」を「ヨセセキ」などと発音する当時のアナウンサー諸君を叱正し、希くは東京の声で正確にアナウンスしてもらひたいと書かれたものだつた。
いま、私の書かうとすることも、全くそれと同じことだ。
でも、あの時分は放送事業草創時代のことだから、南蛮|鴃舌《げきぜつ》のアナ
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