感慨深く太文字に書かれたこの明治怪盗の名をしばし相|佇《たたず》んで打ち仰いだものだった。
 でも、私はその松平紀義の高座も、五寸釘寅吉の高座もついに聴いてはいない。前者の場合は当時宮永町に住んでいた学友で、今日も支那文学者一戸務君を訪れる途次だったのであるから先より聴くべくもなかったが、後者の場合は私自身ひどく酔っ払っていて、寅吉もいいが、それよりもその暇にもう一軒飲んで歩こうと考えてそうそうに立ち去ってしまったのだったから、不勉強の罪、万死に値する。
 松平紀義は私がポスターを見てから間もなくまたまた何かの事件を起こして捕縛され寂しく獄死してしまったが、五寸釘寅吉とて数年後、岩崎栄氏が雑誌「日の出」へ、本人の写真入りで自叙伝風の読み物は紹介されたものの、恐らくや戦前老い朽ちて死に、最早、現世声咳には接すべくもあるまい。いよいよ今日にして彼らの高座に触れておかなかった悔いが深い。
 浜町河岸箱丁殺しの花井|於梅《おうめ》が寄席へ出たのはいつ頃だろうか。私の子供の時分(明治末)には、吉沢商会の活動写真(もちろん、今日でいうところの劇映画)へ登場していた。さる老落語家の手記によると、於梅
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