は寄席では主に手踊りなど見せていたらしいが、衰残の大姥桜、せっかくの踊りも脂気が抜けてただいたましく寄席もひと廻り巡演しただけで好評再演というわけにはいかず、最後は郡部の寄席へまで看板を曝《さら》した、とある。とすると彼女の映画入りは、この寄席出演失敗以後のことだったのだろうか。
花井於梅が蜂吉を殺した明治中世にはわが国の裁判ももうよほど進歩していたから大岡育造や角田真平(竹冷)が弁護してやり、従って命まっとうして苦役後、娑婆へも出られたわけだが、明治初年においてもまた一審で断罪ということなく自由に控訴ができたなら、かの高橋お伝も夜嵐お絹もいたずらに首斬浅右衛門の御厄介にばかりならないで命めでたく、それぞれ寄席の高座へ、残菊の花香を匂わせたことだったろう。ましてお絹は当初、鈴川小春と名乗って日本手品の名花一輪、滝の白糸のごとき水芸その他を、江戸末年の各席において常に上演していたにおいておや。同時に、活動写真の発明とわが国への渡来がそれぞれいま十年早かりせば、お伝もお絹もいまだ残《ざ》んの色香なまめかしい出獄早々スクリーンへその妖姿を現して、たちまちに満都の人気を席捲することができ得た
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