れさんざんに叱られた時、彼、そやかて私は死んだ師匠からこのとおり教わりましたのんで、あの、師匠の教えてくれはったとおり演ったら、あきまへんのんかいなあと大真面目に訊ねたので、さすがの署長が困ったという。けだし枝雀は、そうした市井芸人気質をしみじみと身につけていた落語家の最後のひとりだった。なればこそ、東京出演をすすめられても「汽車が怖いよってよゥ行きまへん」とてついに上京せずじまいだったし、隠退後も移り住んだ生駒山近くの住居が文化ハウスだったので時世はついに枝雀老人をもかかる洋館に住まわせるかと訪問者にそぞろ感慨を催させたら、なんの当の本人は折がら、正午の、西洋間の大テーブルの上へ、キチンと夫婦して上がって、座って昼飯を食べていたという。
 先代桂春團治は、平常の高座もずいぶん愉快なワイセツ振りだったが、当代春團治もまたそっくりその話風を継承していて、だから時々その筋から叱られている。これは桂文楽君に聞いた話であるが先年、名古屋の著名人たちの会合に同君と春團治君が招かれた時、春團治、席につくがいなや立ち上がって羽織を脱ぎ、借りてきた衣紋《えもん》竹へ自らその羽織を裏返しにして掛けたら何
前へ 次へ
全40ページ中21ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
正岡 容 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング