あるという。
 荷風先生にまず「寺じまの記」なる玉の井小品があり、ついで先生は名作『※[#「さんずい+(壥−土へん−厂)」、第3水準1−87−25]東綺譚』を発表されたが私はこの拙文を小手しらべによく『東京パレス』という力作が書けるだろうか。思えば、おぼつかない。
 スケッチの責任をおわった宮尾画伯は、N氏S氏と暗いぬかるみ道をことともしないで、急に元気にいつもの洒落を口にされ出すようになった。
「夜学の灯の感じだね」
 S氏だかN氏だかが、明々と点したパレスの灯を振り返って言った。
 今夜もまた縁なくしてとうとう会えなかったやさしい夢見がちな目の持ちぬしのおもかげを、心ひそかに物足らない思い出で私は追っていた。
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   恵陽居艶話



    風流江戸枕

 いかん。できん。落ちん。
 こうした用語は、私たち旧東京下町人――つまり江戸っ子の家庭にはなかった。
 いけない[#「ない」に傍点]。できない[#「ない」に傍点]。落ちない[#「ない」に傍点]。
 正しくこういう発音をしていた。
 さらに鉄火な発音なら、「いけねぇ[#「ねぇ」に傍点]」「できねぇ[#「ねぇ」に傍
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