べき作者側に、自ら宇田王介(歌はうかい)の洒落の筆名の御人が存する以上、浪曲が「非芸」になっていっても仕方があるまい。
 しかし、何といっても昭和初頭から事変以前までの浪曲と落語との無縁さ加減には、今昔の感に堪えないものがある。落語家は浪曲を場違いとばかり一蹴し、浪曲師はまた博徒のような気質が日常座臥に殺伐にのこって孤立していた。滑稽軽妙な先代重松は門人に始終落語を聴けと言っていたそうだし、同じく飄逸な至芸だったと聞く先代浪華軒〆友は八代目林家正蔵君とも盟友だった由であるが、他は多く犬猿の仲でないまでも、犬と猫ぐらいの不仲ではたしかにあった。落語家と浪曲家が笑顔で話し合うようになったのはかの東宝名人会へともに出演して以来で、それが事変から戦争へ、ともに慰問に出かけることによって、いよいよ両者の垣根は取り除かれた次第である。
 柳家権太楼君と駒形の動坂亭へ立て籠ったのは、昭和七年の夏だったろうか。一座はいま中風になった二世三語楼や、戦後高齢で郷里高崎でみまかった蜃気楼龍玉老人や、今の正蔵君も時にスケにきた。近頃ラジオ研究の俳優グループに名をみいだした守登喜子君も、当時はいまだ若く妖婉で、
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