、森三千代夫妻にその醍醐味を説かれて以来であることはたびたび書いたが、なに事も究め尽くさないではやまない私の性情は、やがて勝太郎、清鶴両君から、木村重浦、友忠、先代重行、松太郎、小金井太郎の諸家と交わるに至った。
 ことに上京後は師匠三語楼と義絶し、フリーランサーだった権太楼君と、故木村重行君の一座に加わって、場末の寄席を打って歩いた。浪曲の間で落語を演るのは辛かったが、かつての大阪楽天地や金竜館でのアトラクションを思えば、よほど気が楽だった。大岡山の寄席では、席亭である大兵肥満の一立斎文晁なる老講談師も一席、力士伝を助演した。今考えると、名人文慶の門派だったにちがいない。大森の弥生館、神田お成道の祇園、山吹町の八千代クラブ、その他、本所にも深川にも未知の寄席がじつに多くて浪曲をかけていた。あんなにたくさん席があったから、青年浪曲家は毎夜連続長篇の勉強ができ、腕も上がったわけである。それが今日では旅が多くて、一カ所を二日も打てば精一杯ゆえ、若手は二席も受ける読み物があれば事が足りるのは情ない。従って、語る(描写)はずの浪曲が、だんだん歌うだけの歌謡まがいに堕落していく。第一、指導者たる
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