風流めかした居を卜としても、無教養で醜い安女給との同棲は、しょせんが私のアルコール中毒を深めていくばかりだった。
 日夜、荒れてばかり、私はいた。
 こうした私の荒涼生活の中に、音曲師の小半次が、今の小せん(当時三太楼)が、今の圓太郎(当時百圓)が、いた。三人とも定命に達した今でもなかなかコワイ彼らが、当時はみな三十歳前後だったのだから、川柳点にいわゆる「片棒を担ぐゆうべの鰒《ふぐ》仲間」で、たいてい察してもらいたい。小原庄助さんではないが、朝寝朝酒朝湯はもちろんのこと、彼らのコーチよろしく、勝負事の嫌いな私が、壺皿を伏せて丁半の真似事までやったりした。
 なにしろ家庭がつまらなくて、原稿料を取るとすぐ狭斜街へ、大半以上を費い果たしては帰ってくる私だったのだから、お台所が持つわけがない。酒屋から米屋から肉屋から肴屋、およそ借金だらけにして、たしか昭和七年のはじめ頃か、東京へ夜逃げをしてしまった。北条秀司君の令弟が土地の電灯会社につとめていて、溜った電気代を私の家へ請求にきたが、ついにもらえなかったと、これものちに北条君から聞かされて私は、大恐縮した。
 この小田原の生活の中で、今考えて
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