り伊勢屋」の秀作はまさしく瞠目に価するとよろこんでいる。昨夏も私の倅《せがれ》分たる永井啓夫に正蔵君は、
「あなたのお師匠さんとは二十三年のお交いですよ」
と言ったそうだが、事実、お互いに汲む時も同君は、この雑司ヶ谷時代を語っては深い感慨に耽るのである。
こうして翌年四月、上京したとたんに快弁の先々代林家正蔵が胃病で歿り、旧知の急逝に私は銀座裏で安酒を煽って涙し、目が醒めたら牡丹桜の散る吉原のチャチな妓楼で眠っていた。間もなく日暮里の花見寺での葬儀では、落語家の座席の哄笑爆笑、さすがに今はもうあんなバカバカしいお葬《とむら》いは見られない。この時には四谷石切横丁にいた三遊亭金馬君の家へ私は泊まり、夏近くまで厄介になった。金馬君はようやく売り出しという時代で、先夫人が長唄の師匠をしていられたが、売り出しだけに別の意味ではなかなか生活はたいへんだったろうと、今になってよくわかる。なにより勝負事に自信のあった同君自らが、仲間の通夜があるたんびに、きっとはじまる勝負事で必ず大勝しては寄席での収入を補い、
「お通夜(お艶)殺してんだよこれを」
と洒落のめしていたにおいてをや。この滞泊中に、
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