幸を密かに憐れんで橋本(圓馬の姓)にも似合わないと言っていてくれた三木さんは、言下に明答を与えくれた。曰く、あなたがあんたの師匠の吉井勇先生だけの看板やったら吉本は橋本に謝罪しろなどと言わんと黙って出演させまっしゃろ、それを謝罪してくれ言うのは、まだまだあんたが売り出しておらんのや。サここから速達で吉本へ断り状出して、あんたは故郷の東京へ去《い》んでえらい人になんなはれ。なるほどなるほどなるほどと思ったので、その場で三木さんの言うとおりにして出演断りの速達をTへ宛てて出すと、旬日ののち何年振りかでひとまず私は東京へ帰った。三木さんのこのひとことなくんば私は永久に帰京のふん[#「ふん」に傍点]切りがつかないじまいでいただろう。今に私が先代桂三木助氏を、わが人生行路の恩人のひとりとするゆえんである。
この前後、師父圓馬と難波駅近くで口論格闘して号泣したこと、霙《みぞれ》の一夜中の島公会堂で大辻司郎君と乱闘したことはじめ、帰京後何年かの落語家生活までを具《つぶ》さに書いてそれで前後四回に纒め上げるつもりでいたところ、どうしてどうしていざ書いてみたら私の腹案の半分も来ないうち、予定の四回が
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