に対して、そんなことを言わずあっさり詫びてうちの寄席へ出る方がいい、その方が君の地位がぐっと上がる、第一そうすりゃこんな襟垢《えりあか》のついたものを着ていないでも――と私の紺絣対服(例の軽気球の高座着は世帯を畳むとき置いてきてしまったからもうなかった)の襟のあたりをスーッと手でしごくようにした。私は今もありありその時のTの手の重味というか、触感というか、それを激しい屈辱感とともに肩先へ蘇らすことができる。なるほど、その時の私はさびしい紙衣《かみこ》姿であったろうが、それは家庭のこと、妓のこと、精神的不如意のためのアルコール中毒ゆえで、心境さえよくなったら、明日からでも精一杯に働く自信は全身に満ち満ちていたのだ。ましてその時、妓は一時遠国へ働きに行っており、襟垢のつくまで私が一つ紺絣を着ていたというのもじつは当座のその妓の生き形見であるためだったのだから、いっそう烈しい烈しい侮辱を感じ、憤然とせずにはいられなかった。もちろんその晩Tには諾否を与えず、黙々としてそのまま私は花月の楽屋をあとにすると、翌日、私は天王寺に桂三木助氏を訪れて、一切を話し、身の振り方を相談した。かねて私の家庭の不
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