く「モダン漫才」の看板が怨めしかった。
ところで繰り返して言うが、その頃の東京の落語界はほんとうに大不況で、江川の大盛館には今の柳橋君が二人羽織の余興などで悲壮に立て籠っていた。また私が楽天地にいる頃は、弁天座の万歳大会(漫才と書いた第二次の流行期ではない。これは砂川捨丸の黄金時代で、かのエンタツなどは菅原家千代丸という老練につかわれてお尻ばかり振る惨めな高座をいまだ勤めていた)へは、今の三木助君が一度は戦災死したかの二代目岩てこの、一度は今の巴家《ともえや》寅子の、つまり太神楽の太夫となってやってきた。太夫といっても、もちろん曲はつかえないから同君|専《もっぱ》ら踊るばかりなのであるが、妙な太神楽の構成があったもので、かりにも寅子なり岩てこなりというそうそうたる人たちが、曲のできない三木助君をなぜ頼んだのだろう。何かそれだけの特別の理由があったのだろうか。師匠の柳橋君は二人羽織で、弟子の三木助君(その頃柳昇)は太神楽の一座へ入ってお茶を濁していたのであるから、思えばその時代の落語家生活のいかに苦しかったかがわかるだろう。同君は、この少し以前三代目三木助門下となって、また三木助氏が天
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