崩れだけに生きたお金はつかえなかったのだ。急所のお金、捨石のお金がちっともまけず、マネージャーをやとってそれにいくらかでも持っていかれるなどということはまた、なまじ肚からの芸人ではなくて近代の学問もしているだけにどうも馬鹿を見るようで、要するにつまりひと口に「金」の性能がまったくにわからなかったのである。だから私はいい生活のでき得たのが、自分からことさらにその機会を追い払っていたのだということが今日になってじつによくわかる。
 現にこの前後、私は年に幾度か上京して、先々代正蔵、金語楼、金馬、現下の正蔵の諸君に二人会を演らせてもらったことがある。と今だからこう殊勝らしく書くが、当時は堂々上記の人々と二人会を演ったと本人は思っていた。もっとも一般の寄席はもう大不況で、下手でも何でも漫談家とか我々とかがメンバーで特殊会をやるほうが多少客足のよかったことは事実であるが――。それにしても金語楼君には報知講堂で、金馬君、正蔵君とはそれぞれ神田の立花亭で、別に先々代正蔵君のは銀座の東朝座での独演会を一席助演した。マ、それはいいとして、今日考えても冷汗三斗に堪えないのは二人会の場合、金語楼君なり金馬君
前へ 次へ
全78ページ中37ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
正岡 容 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング