においてやってみようという肚《はら》もまた少からずあったのだ。女のみが派手な服装をして、男が地味にすることを廃し、よろしく平安朝や元禄時代のように男も華美になったらどうだと、ちょうどその頃そうした見解を発表したのは、稲垣足穂君だったろうか、矢野目源一君だったろうか。この所説にも私は大いに共感し、相変わらず「人生のこと日に日に非ず」なる嘆きのピエロである自分を、せめても服装だけでも多彩に飾りたかったのではある。
 かくして、私はその頃関西には漫談も新落語(小春團治君の救世軍の落語がアッピールしたのはこの「ハムレット」吹き込みの翌々年あたりである)もなかった頃のこととて、技、いまだしであってもたしかに一方のいい格になれていたのであるが、肝腎の精神生活が全然駄目だった上に、二十三や四や五では「金」の使い方が、全然なっていなかった[#「なっていなかった」に傍点]ので、ほんとうの成功は見られなかった。私は生来、決して欲張りではなく、子供の時分から気に入った人にはずいぶん愛蔵の本やレコードも惜し気なくくれてやるという風な気性であると多少は他からもほめられてきていた方だったが、なおさら、お坊ちゃんの
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