着ていたのであるが、他に高座着は冬はオレンジ色、夏は水浅黄の羽織を別染めにして軽気珠の五つ紋をつけていた。西下以前、岩佐東一郎、藤田初巳君らと季刊雑誌「開花草子」を発行していた時、その扉絵に水島爾保布画伯が軽気珠飛揚げの図を恵んでくだすった。私の羽織の紋はこれを下図に縫わせたのであって、私の芸術全体を明治開花の軽気球は最もよく象徴していてくれていると考えたからである。黒と鼠と牡丹色の大きな水玉のあるリボンを巻きつけた麦藁帽子を見つけて、得意で冠って歩いていたのもその頃なら、襦子《しゅす》の色足袋、三角の下駄といった風に変わったものの目につくたんび、きっと求めては身につけたのもその頃だった。こう書いたら関西方面の読者の多くは恐らく先代春團治のあの派手で怪奇な高座着(今の春團治君がそっくり踏襲している由だが)を連想させるだろうし、その先代春團治はまた盲の文三の高座着のデザインから案出したものであると聞くが、たしかに私が春團治の多彩なあの服装が決して嫌いではなかったし、従ってそのモダン化という狙いもあったが、もうひとつ北原白秋が「思ひ出」「雪と花火」「桐の花」のカラリストとしての苦境を、現実
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