登場活躍していたのである。この掛け合い吹き込みの宣伝写真で私のパートナーは支那服姿で三味線を弄《ろう》してと書いたが、じつは彼女、三味線はペンともツンとも鳴らせなくて、ほんとうの吹き込みの時は下座の老女が弾いてくれ、私はその絃で新内や大津絵を歌った。こうした私のありのすさびの悲しき戯れも、しょせんは例の宝塚の歌姫への対抗を意識してのこと、もちろんだった。が、それはそれとし今日に至って私たちの構成したこの軽演芸そのものについて考えてみると、当時は浅草オペラ亡びて数年、代わるにカジノフォーリーもプペダンサントとてもなかった。エノケンと緑波の台頭、ムーランルージュの出現も、まだまだ数年ののちだった。私の彼女と試みたことは明らかに時代より十年くらい早過ぎていたといえる。この支那服の人が、のち三上|於菟吉《おときち》と艶名を諷《うた》われ、汎太平洋婦人会議へ出席、女流飛行家となって死んだ北村兼子君である。今日まで健在だったら、当然女流代議士として松谷天光光とか山ロシヅヱとかいう人々の間に伍して泉山三六閣下を手玉に取っていたことだろう。
この吹き込みの時、前述のごとく私は対の浴衣の羽織と着物とを
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