までもどこまでも売り物には花お客には親切、この商売熱心の点だけは大いに大いに今日とても関東方学ぶべきものがあると推称しておく。その代わり文芸部の先生方あまり名筆をふるいすぎては出演連名を「クリエーション」、三人会を「三覇双」、さては「インタレストは講談に重きを置く」などといったような珍妙至極の新語を羅列してしまう失敗もまたしばしばだったけれども――。
 が、そうした風だからくどいようだがあくまで商売は上手で客足もよく、大正末から昭和初頭の寄席不況時代も大阪の落語界はかなりに殷賑《いんしん》をきわめていた(事変後急に漫才を重点的に起用しだしてからこの東西の位置は顛倒《てんとう》しだし、しばらく東京方から挽回しだした)。当時の元老には松翁の先代松鶴が、京都の文之助がいたが、すでに隠退してしまってラジオへだけ、時々出ていた。枝雀、枝太郎あたりが老大家で、圓馬、三木助、春團治、染丸、音曲噺の圓太郎が現役の大家だった。鼓の圓子、三十石の小文枝、廓噺の文治郎、鬚を生やした蔵之助、今の遊三、レコードで売った花橘《かきつ》、枯淡な円枝が中堅格。新鋭の筆頭に、のちの松鶴の枝鶴、宗十郎のような声をだした露
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