私は今でもやはり駄目かもしれない。事情がわかってすっかり憂鬱になってしまった私を眺めた正蔵君はたいそうたいそう気の毒がってその晩近くのビヤホールへ私を連れて行き、その代わりいくらでも飲んでくださいとこう言ったが、たとえそこにあるだけのビヤ樽の生ビールを飲み干してしまったとて、このまちがいだけはどう解決のつくものでも、なかったろう。
 さてこの事件を序《まく》開きとして、ついで今の女流作家の真杉静枝さんが折柄、妙齢美貌の婦人記者で、この島原の事件の前後に知り合い、宝塚の彼女に同じく私より少し年上ではあったが、私はこの人により更生しようと意を決したので、手紙をおくると彼女もまた現在の境涯のさびしさを訴えた返事をすぐにくれた。で、欣喜雀躍近寄って行くと彼女にははやその頃同じ社の校正記者の愛人があってすでに同棲をさえあえてしていた。亡き渡瀬淳子女史や島平君がずいぶん心配して奔走してくれたが、結局どうにもならなかった。師、吉井勇イミテーションの私の短歌を愛誦して、同じ頃長崎からペンの字美しい手紙をくれた少女があった。私は「サンデー毎日」へ連載した「蔓珠沙華亀山噺」という幻想小説の原稿料三、四百円
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