困苦窮迫のどん底にいたのだったにおいてをや。が、それからさらに十年ののち、私は過去の落語家生活の体験を生かした『圓太郎馬車』という小説を書いて世に問い、それが緑波君によって宝塚系の劇場である有楽座に上演され、私の出世作とも更正作ともなったことを思えば、世の中のことはすべて廻り持ちであると言わざるを得ない。
 ところで第一次「苦楽」の、たしか大正十四年早夏号の、私の寄席随筆の中へ、私は自らいよいよ落語家になりますという口上を書いている。そしてその自分の文章の中へは、徳川無声、林家正蔵(先々代)、正岡容の三枚看枝を並べてみたと覚えている。
 けだし当時の徳川君は説明者としては第一流だったが、いまだいまだ話術家として高座へ現れてはいなかったから、この企画は超斬新であったのだ。またこの正蔵君はもちろん前に書いた流弁なりし先々代で、さらにその文章の中にはワクでかこんで先々代正蔵君の私の落語界入りのための口上文が書いてあったが、これは当時「苦楽」を編輯《へんしゅう》していた川口松太郎君が執筆したものだった。この年の九月、すなわち私の都落ちの直前、読売新聞社からは社会部の記者が写真斑同行でやってきて
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