たあと、大喜利には全員がズラリ高座へお題噺のよう居並んで、各自五分間ずつの落語協会大幹部の弾劾《だんがい》演説、あるいは憤りあるいは叫び、怖しくもまた物凄しと大薩摩の文句をそのままのすさまじさを顕現した。あれが大正十四年、私の二十二の秋だったから、あれからちょうど今年で二十三年経つ、二十三年の歳月は今では正蔵君をも、今輔君をもそれぞれ両派の大幹部として落ち着くところへ落ち着かせてしまっているが、つわものどもが夢のあと。今や往時を顧みて、両君の感慨は如何。
 ところで私の方は、この時宝塚の女優と別れたのが原因で、西下放浪加うるにその前後、いかんとしても寂しさの棄てどころがなく、たいていもうやけのやん八になっていたので自ら文学の世界を放棄する(にも何にもお恥ずかしい話だが、てんで身心めちゃめちゃになってしまっていたのだった)と、落語家として出発することを堂々世間へ発表してしまった。破れ布に破れ傘、これも誰ゆえ小桜ゆえ。つまり亭主を芸者に奪われた女性がとたんに自らもダンサーか花街に身を投じたごとく、私もまたその歌姫への面当てに、落語家たらむとは決意したのだというところで、さて第一章の紙数が尽
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